
黒煙が上がる。
男はゴミ捨て場から拾ってきた雑誌を握りしめて、火を灯し、焼けた手を振るって目の前の建物に叩きつける―――この異能。夢を捨てることになったのは、感情が昂ぶると手にしたものを燃やしてしまうこの力のせいだった。
あれ程憎んだ力が―――あれほどわけのわからなかった力が、今となっては不思議と制御できる。まるで、すっぽ抜けていたハンドルを挿し直したかのように。
ガン、ガン! ダス、ダスッ!
あちこちから打撃音が聞こえてくる。シャッターや、割れ物、人間までもが楽器にされ、火の粉と煙をベースに退廃の音楽を奏でる。
男はそこに、ふと、誰かが歌を重ねていると気づく。
希望、友愛、未来。そうしたものを語りかける―――耳障りな歌。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「離せッ! 離せよォ!! このままじゃ、ジュリアさんが!!」
「駄目だ! 君じゃ、どうにもならん! 避難しなさい!!」
K.Mはプチスタジオ・ツクナミを前にして、厳戒態勢を敷く警察官たちに引き止められていた。
「落ち着くんだ……」
「イヤだ!!」
バァン! 何か金属の板が吹き飛んだらしい。プチスタジオ・ツクナミの前で暴れていた暴徒たちが、中に飛び込んでいく。
「やめろォ!!」
グ、と踏み込むK.M。だが、警官の大きな手が彼の肩をもう掴んでいた。
「君がやめろってンだ!! 危ないんだぞ!」
「危ないって―――」
―――危ないのは、ジュリアさんなんだぞ!?
そこへ、ボゥッ! スタジオから、火の手が上がった。誰かが異能を使ったのか、火炎瓶でも投げ込んだか……
「あぁッ……!!」
K.Mの瞳がキュッと縮んだ。
「まずい!」
「我々に任せて、君は避難するんだ!!」
「だ、だったら―――」
―――だったら今すぐあのスタジオの火を消してみせてよ! あのヒトたちを追ッ払ってよ!!
―――あなた達に何がわかるんだ! ジュリアさんが殺されちゃう!
「さあ、あっちへ!
引き戻される。目の前でスタジオが燃えている。
キッと、バイオリンを引くような、甲高い音が、する―――
―――邪魔をしないでッ!!
……K.Mの手に、チリが凝集していた。
警官たちも、彼自身も、誰一人として気づかぬうちに……
―――ダゥン!!
K.Mは、すぐには何がなんだかわからなかった。
また、スタジオが爆発したのか?
自分を引き止めていた警官が、目の前でかしいでいく。
「き、君ッ…… 何をした!?」
もうひとりいた警官が迫ってくる。
K.Mは、逃げた。スタジオの方へ、一直線に。
「待て―――」
待つ? どうして?
あのスタジオに踏み込まなきゃ。ジュリアさんを、助けなきゃ―――
警官が倒れたところから、どくどくと血溜まりが拡がっていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
逃げ出すスタッフたちとすれ違うようにしてK.Mはスタジオの中を駆け抜けた。暴徒たちは、今は無視した。K.Mも放ってはおけないと思ってはいたが、とにかく樹里亜の救出が最優先だったのだ。
煙が回る前にどうにかしなくてはならない。
なぜか軒並み開けられたドアを抜ける。通路、ドア、ドア、通路、ドア―――
その先の部屋に、K.Mは樹里亜の姿を見た。彼女を押し倒し、今にも暴力を振るわんとする男も、一人。
「―――やぁェッ!!」
ドッ! K.Mは力いっぱい跳躍し、身体ごと浴びせるようにして男に蹴りかかった。
後頭部に直撃、下半身がまるごと相手の背中に降りかかる……
「ウッ!!」
樹里亜のうめき声だった。男ごと押しつぶす格好になってしまった。
K.Mがにわかに動揺したのにつけこんで、男は身体を翻し、立ち上がる。
「てめえッ!」
男の声が聞こえた、次の瞬間……
「ア……!?」
K.Mは、背中にアイロンを押し当てられたかのようになった。
「ぎぁああぁあぁッ!?」
男の手が赤熱していた。がっしりとK.Mの身体を捉え、焦がしていく!
「死ね、死ね、死ねェ!!」
「あ゛ぁああ゛あぁああッ―――」
想像したことさえないような痛みが、肉の奥へ染み込んでいく。 皮が、筋肉が、骨が―――五臓六腑が、焼かれる!
耐えられるはずがない。意識を手放しかけた、そのとき……
『―――雨は降る 焼けた地に いつか日は 照るでしょう』
ふと、歌が聞こえてきた……それはK.Mの心をつなぎとめ、男の攻撃を中断させた。
『―――諦めないで 光りの 流れは 心に 注ぐから……』
樹里亜が、歌っている。
痛みが、引いていく。身体を、起こせる程度には……
「挫けな―――ごほ、ごほっごほ……ッ!」
「ジュリアさんッ」
この部屋にももう煙が回ってきている。K.Mは樹里亜のもとに駆け寄ろうとした。
が―――それよりも先に、あの男が、K.Mを押しのけてしまった。
「ムカつくんだよ、その歌!!」
掴みかからんとする。今ならばK.Mにもわかる。あの手で、さっきまで焼き殺されそうになっていた!
「よせッ!!」
……また、K.Mは手がくすぐったくなる。
アイツを、食い止めなければ。除かなければ。
この力で…… この、力で?
ふと、思い出す。さっき、外で、何があった?
あの止めにかかった警官が倒れたのは、なぜだ?
K.Mは、硬直した。
☆ ★ ☆ ★ ☆
一穂と美香は、炎上するプチスタジオ・ツクナミを目の当たりにした……少なくとも美香にとっては、そう認識できるまでに少し時間がかかった。周りの建物も似たように荒らされつつあったからだ。
「あそこです!」
一穂の目は迷うことなく問題のスタジオを捉えていた。地理を完全に記憶していたらしい―――彼ならそれも不可能ではない、と美香は認識している。
そのスタジオに至るまでの道には、警官が数名倒れている。一人は出血が激しく、背中に小さく穴が空いている。断定はできないが、状況を考えると例えまだ生きていたとしても助からないだろうと一穂は思う。
だが、彼以外の者たちはまだ息があるようだった。
「大丈夫ですか。しっかりしてください」
一穂は倒れている警官に呼びかけながらも応急処置キット―――WSO標準の装備だ。なぜかここに、数回分も持ち込んでいる―――を開け、使用準備をテキパキと進めていた。
「そ、そうよ! 目開けなさい! 倒れてる場合じゃ!」
美香も、一穂に倣う。速度も精度も彼には及ばないが、何もしないよりはいい。
傷が塞がれ、いくつかの薬が消費されたところで、警官の一人が意識を取り戻した。
「……君は……」
覚醒した警官は、まず一穂の顔を見て、目を丸くする。
「気がつきましたか……」
返事もせず、警官は傍らを見た。
血の海に横たわる、同僚の姿が、そこにあった。
「……ッ!!」
一穂は喉笛に掴みかかられ、押し倒された。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「―――こんなことをしてあなたは楽しいの。傷つけたり、壊したり……嫌な気持ちになるんじゃないの」
訴えかける樹里亜の前で男は静止している。だが、危害を加えようと思えばいつでもやれる距離だ。
「……オマエこそ、その歌、異能だろ。聞くたんびに調子が狂うんだよ。聞いてるときだけな。
それで優しい気持ちになれたとか言うのか―――」
放心していたK.Mに、その言葉が突き刺さる。
異能? 違う。この人は誰でも持っているものを目覚めさせているだけだ。
それを、まるで、心を無理矢理歪めてるみたいに―――!
ドッ!
K.Mは、後ろから男に体当たりを仕掛けていた。
そのまま押し倒し、今度は覆いかぶさる姿勢になる。あの手を使わせるわけにはいかない。そのくらい冷静でありながら、しかしK.Mは叫んだ。
「ジュリアさんを、バカにするな……!
お前に何がわかるんだ! ジュリアさんはどんな辛いことがあったって諦めなかったから……!!」
「知ってるともよッ!」
グ、と身体が浮き、K.Mはまた床に転がされる。お世辞にも体格がいいとは言えないK.Mに対し、相手は大人であり、その差はどうにもしがたい。
「だから……なおさら……!」
また、男が樹里亜に迫っていく。
駄目だ。このままじゃ駄目だ。
また、手がくすぐられる。何か細かいものが集まっていく。
力が、出てしまう。
殺してしまう。樹里亜さんの前で。
それも、駄目だ。
どうすればいい。
「……ィッ、パァッハッッ゛―――」
聞いたこともない奇妙な音―――いや、声。
目の中に、飛び込んでくる。
男の背中。伸びる手。
樹里亜の首が、煙を上げている。
目の前の床が、爆ぜた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「ちょっと! 一穂に何すんのよ!!」
一穂に掴みかかった警官を美香は離そうと必死になる。
「オマエらが、オマエらが! サヤマを殺したンだッ!!」
「僕が―――?」
一穂はその一言からこの場で何があったかを理解し、返事をした。
「……服の色、違いませんか。赤でしょ。青じゃなくて」
「ッ……」
警官の力が緩む。
「あたしたち、ここに来たばっかりなのよ。こいつと瓜二つの子を追いかけて……」
「うり、ふたつ……」
その時、ガシャン!
どこかの窓が割れた。そんなのは、ここではもうよくあることだった。
けれど、中から飛び出してきたものに、誰もが目を奪われた。
漆黒の枝で、人間が刺し貫かれていた。まるでモズの早贄のように。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「君たちが、無関係だということは信じよう。少なくとも今回の件についてはな」
取調室に座った警官が一穂に言う。長方形の箱を思わせる顔をして、おでこが広い男だった。
「……今回は、ですか?」
「そうだ。知っているだろうが、イバラシティが今のようなことになっちまう前には、奇妙な事件が連続して起こっていた。
それらについて聞き込みをしているうちに、事件の現場のほとんどに君と、あの美香という女の子が現れていたらしいことがわかったんだ。
もちろん事件が君たちの仕業だと断じるつもりではない……だが、なぜだ? 若気の至りにしたって、ちょっと無茶のしすぎじゃないのかい?」
警官は一穂の目をまっすぐに見据えてくる。
どうすればいいか、考えなくてはならなかった。
彼らに、どういう形で自分たちを認めさせればいいか。
この事態を、どういう流れで鎮静させるべきか。
そのために、警察さえ利用すべきなのか、そうではないのか……
「いくつか、条件があります」
一穂は重い口を開いた。
「条件だと?」
「はい。一つは、僕らがいかなることをあなた方に伝えたとしても、僕らに危害を加えたり、永久に拘束したりなどはしないことです」
一穂の言葉に警官は苦笑いした。
「……我々もずいぶん悪く見られたもんだな。警官が危害だなんだって、まあ確かに、悲しいがそういうことも起きちまってはいる。
だが……君のそれはちょいと、マンガの読みすぎてヤツじゃないか?」
「では、マンガでしかありえないようなことが、本当に起きているとしたらどうしますか」
警官はまた顔を崩しかけたが、やめた。
この少年の目はどうも真実味をたたえているし、一連の事件がある意味でマンガみたいなのも事実だ。
「例えそうでも、今ある法に従って対応するまでだ。それでは駄目だとなったら、国の上の方の仕事にもなる。
それに……我々の仕事は人々の安全を護ることだ。今のこの事態は一刻も早く解決したい。全てはそれからだ」
一穂もまた、誠実な瞳を向けられた。
言うことは、決まった。
「こことは違う世界―――『アンジニティ』とも異なる場所から、現れたものがあります。それらが事件を起こしている。
そして、僕と美香さんもまた、そこから来たのです」