
その男は久しぶりに自分の部屋を出た。
外は、ようやく明るくなりだしたというところだった。明け方の風の心地よさを、男はもしかしたら初めて、その身で感じた。
その男はやつれ、荒みきっていた。
男は、人生に敗れたと思っていた。色々なことがどうでもよかったはずだった。他人も、己さえも。
男にだって、夢を追い、生きることを楽しんでいた時期はあった。けれど、それと生まれついての異能が決して相容れぬものであると知って、自分は敗者だと思うようになった。
初めのうちは、何度か自ら命を絶とうとしたのを覚えている。けれど試みる度に、それは途轍もないエネルギーが必要な行為であり、いつしか自分ごときには到底不可能な行いなのだとわかってしまった。
だからもう何もしなかった。何もしないわけにはいかなかったから、この停滞に関わる全てを人のせいにしてきた。
そんなことをしても虚しいだけだとはわかっていた。だがそれさえも、虚しいのだとしたらそれは人生そのものが虚しいのだと、自分は―――自分のような人たちは―――そも生まれてくるべきではなかったのだと、男はそう信じて疑わなかった。
『侵略』を告げられた日も、様々な怪事件がニュースで報道された時も、男は何もしなかった。
異形の木々が街を襲うに至った時には、自分のくるぶしを何かがくすぐるような感覚を覚えたが、それもすぐに収まっていた。
そんな男が、外に出て、迷いもせずにどこかへ歩いていた。
彼のいた部屋には、つきっぱなしのパソコンが残された。
画面には、SNSのタイムライン。
☆ ★ ☆ ★ ☆
廃コンテナの中、一穂はゆっくりと目を覚ました。
起き上がれば、そこにはスマートフォンの画面とにらめっこしている美香がいる。一穂が立ち上がって近くに寄ると、
「起きたの一穂、コレ……見て」
促されて画面に目をやると、『またも"アンジニティ・パージ"の破壊活動 ウシ駅前にて21人死傷』なる見出しが躍っていた。ニュースサイトだ。
「……何もかもが悪い方向に向かってる。
あたしらの世界のゴタゴタで、この街がめちゃくちゃに、なっちゃってる……」
と、美香は頭を抱えてうなだれてしまった。
一穂は一言断ってスマホを譲り受け、ページをスクロールしていく。
アンジニティ・パージはその名が示す通り、この世界に紛れ込んだアンジニティの存在を排除しようとするムーヴメントであった。そうした動き自体は『侵略』を告げる声が聞こえた日から少しずつ見られていたのだが、あの現実をおとぎの国に変えようとした巨木―――DE-1401の一件を境に、一気に加熱してしまっていた。
一穂たちの世界から流れ込んできたデビアンスが、アンジニティの侵略兵器として見られていた。
ふと、コン、コンとコンテナの扉が鳴った。
美香は立ち上がり、特に警戒もせず開けに行く。その向こうにいたのは、K.Mだった。
「おはよう、美香さん、一穂さん」
K.Mは差し入れのビニール袋を手にしていた。
あれからK.Mは一穂たちの協力者になっていた。DE-1401のただ一人の生き証人である彼に一穂と美香は事情を説明し、幸いにしてすんなりと受け入れてもらえたのだ。
K.Mは以前使っていたというスマホと、プリペイドのSIMカードまでも提供してくれた。その上こうして差し入れを持ってきてくれてすらいる。
金回りのことを尋ねもしたが、小さい頃からほとんど小遣いを使ったことがなくて、とのことであった……それにしても世話を焼きすぎだろう、と一穂としては思うが、もしか性格を除けば己と瓜二つの自分を放っておけないのかもしれない。
それは一穂の側からしても同じだった。K.Mと自分は、少なくとも全くの無関係ではあるまい。ここまで油断もなく近づいてくるのだから、敵というわけではないのだろうが。
三人分のカップにコーンポタージュの粉を入れ、魔法瓶から熱いお湯を注ぐ。フードパックのサラダをお皿にあけ、別売りのドレッシングをかける。各自一つずつおにぎりを取り、フライドチキンを切り分け、五百mlの牛乳を三等分する。コンビニで買えるモノでちゃんと栄養を確保する、となるとこういう形になった。
「前も聞いたけどお金大丈夫なの、コレ? あんたの分まで……」
と、美香はフライドチキンを口で引きちぎり、肉汁を堪能した。K.Mはポタージュをちみちみとすすり、一穂は黙りこくって誰よりも速く食べている。
「ああもういいんだよ、ホントにもう美香さんたら……そりゃ、ぼくも話とかしたいしさ」
「あー……どうせなら、コンビニじゃなくてスーパーなりに行ったほうがいいと思うわ。そっちのほうがずっと安上がりよ」
「わかった、今度はそうしてみる」
そうしてしばらく朝食を腹に入れていると、ふとK.Mが口を開いた。
「……学校も様子見て、来週から休校にするかもしれないって。
ぼくの通ってるとこ、ウシ駅に、割と近いから」
「……それじゃ、ココに来るのもヤバいんじゃなくて? ホントは……」
「休みの日は寝坊助ってコトで通してるから。こっそり出てきて戻ればいいの」
K.Mと美香が話している間にいち早く食事を終えた一穂は、またスマホを手にして情報を集め始めた。こうなったからには一刻も早く全てのデビアンスを―――自分と美香も含めて―――元いた場所に戻す手段を見つけなくてはならない。そのために同じデビアンスの力を使うことになるか、あるいは異能者の手を借りることになるかはわからないが。
SNSにも適当に仕立てたメールアドレスで登録しておいた。情報は精査しなければならないが、デビアンスの手がかりを探すためにはリアルタイムの動向を掴むのも重要だと一穂は考えた。
とはいえ、現在のタイムラインに流れるのは不安の声とデマ、アンジニティ排斥を扇動する声ばかりである。これでは、今にもっと大きな事件が起こってしまうだろう……
そんな中にふと、動画のついた書き込みが流れてきて、勝手に再生された―――初期状態のアカウントはそうする設定になっていた―――マナーモードにしていなかったスマホから女性の声が流れる。
「みなさん、私の声が聞こえますか……」
「ちょっと一穂、容量取られちゃうわよそれ」
それはわかっているのだが、再生位置のゲージはみるみるうちに真っ白になってしまった。動画のデータを全部ダウンロードしてしまったわけだから今更止めても手遅れだ。
「私、木叢 樹里亜(こむら じゅりあ)からのお願いです」
画面に映る女性は、長く伸ばした栗色の髪に、薄いピンクの肌色をしていた。美しいとか整った、という以前に、優しい顔立ちだった―――尤も、長年心は死んだままに生き続けていた一穂には、なかなかそうは思えなかったのだが。
「ジュリアさんだ! このヒトのファンなんだよ、ぼく」
K.Mがぐぐっと顔を寄せてくるので、一穂はスマホをちゃぶ台の上に置いて三人で見られるようにした。
「……今、この町ではとても悲しい事件が相次いでいます。
昨日の夜もウシ駅で暴動が起こり、八人の尊い命が失われました……」
その樹里亜という人の目は、今にも泣き出してしまいそうで、それでいて強い力を秘めていた。
「……私達は何を恐れているのでしょうか?
私達の中に紛れ込み、侵略を進めているというアンジニティ……
その侵略の兆しであるかもしれないいくつもの事件……
この街は、確かに今、恐ろしい力にさらされているのでしょう。
ですが……だからといって、誰も彼もを疑って、傷つけあっていいのでしょうか?
今、誰かを傷つけようとしている人へ……
あなたは何のために拳を振るうのですか? アンジニティかもしれない者を倒すため?
……自分の心に尋ねてみてください。
本当は、不安で、怖くてしょうがないから…… 気持ちのやり場を、暴力に求めてしまっているのではありませんか?
……私達はみな弱く、臆病です。
どうしていいかわからないのは、あなただけではないのです。
……私にできることはこのくらい。皆さんに、この歌を、贈ります」
そうして樹里亜は歌い出した。
顔に違わぬ優しい歌だった。一穂は、心拍数が下がっていくのを感じた。脇を見ればK.Mがまた泣きそうな顔をしている。
「……キレイな、歌だね」
美香がすっかり落ち着いた声を吐く。もしかそういう異能なんだろうか、と一穂が思いかけた時、
「ジュリアさんは…… 小さい頃から歌手になりたくて、一生懸命歌の練習をしてきたんだよ。
でも、中学校の頃……警察官だったお父さんが、通り魔事件の犯人に殺されてしまって、そのショックで声が出なくなったんだ。
それでも、誰かを助けたい、優しい気持ちにさせたいって、立ち直って……プロになるチャンスは逃しちゃったけど、こうやってネットの力で自分の歌を広めてるんだ」
と、信念と努力の産物であることをK.Mが語った。
まもなく歌が流れ終え、動画も閉じられる。
K.Mも美香も満足げなので、一穂はスマホに触れて下の方にスクロールし動画へのリプライを見る。
『感動しました』
『寝ぼけんな』
『ありがとう樹里亜さん。今はとにかく落ち着いて冷静にならなきゃ』
『ふざけんなクソブス』
『とアンジニティ出身の樹里亜さんが申しておりますwww』
『ここに返信してる人たちは何も分かってない、樹里亜さんは正しいことを言ってるよ』
『とアンジニティ出身のスパイの方が申しておりますwww』
『くたばれ売国奴』
『死ね』
『消えろ』
『↑通報しました』
……
「な、何だよこれ……!」
画面を見てしまったK.Mはわなわなと憤りだした。一穂はしまった、と思い、
「すいません」
K.Mから画面を隠そうとするが、グッとスマホを掴まれる。その拍子に画面に指が触れて、またちょっと下にスクロールしてしまう。
映ったリプライにK.Mの瞳はぎゅっと縮んだ。
『樹里亜さん、あんたここで配信してますよね今???
ツクナミ区 *-**-* プチスタジオ・ツクナミ』
「ジュリアさん……!」
K.Mはコンテナの扉をぶち開けて飛び出していった。
「あ、待ってK.M! あんた状況―――」
美香が言い終える前に、K.Mは視界から消えていた。
「あいっつ…… あ!」
一穂は既に靴を履き、サッと美香の脇を通り抜けてコンテナの外に飛び出し、走り去っていた。
「ちょ、ちょっとォ、待ちなさいよ!!」
美香も、後を追って転がり出る。