
//side:イバラシティ
その日は、雪が降りそうな曇天だった。
来る者を遠ざけるような厳しい門を通り抜けると、重厚さを醸し出す日本家屋が見えた。
広い庭には番犬として黒い犬が多頭放し飼いにされていて、いかにも高そうな鯉の泳ぐ池もあれば、手入れの行き届いた日本庭園まである。
実際、今は庭師が植木を剪定しているところだった。
(相変わらず金かかってんなあ)
そんなことを思いながら、男は砂利の敷き詰められた一角を進む。
じゃり、ざり、と音を響かせて歩けば番犬がひょいと顔を出して、一瞬で興味を無くして去っていった。
広すぎる庭をゆったりと横切った先には、敷地の端も端に建てられた離れがあった。
一般家庭からすれば十二分に広い家だ。
けれど、喧騒から切り離されたような、しんと静かな空気だけがそこにあった。
離れはこの敷地内ではまだ新しい部類の建物であるはずなのに、どこか陰鬱とした雰囲気がある。
「おう、何見てんだ?」
男は、離れの前庭に向かって声を掛けた。
赤い椿の生け垣の影に、もそりと動くものがいた。
それは返事もせずに、視線だけをこちらに向けた。
椿のような、血のような赤色が男を映す。
「……返事しろよー」
男はため息とともに数歩の距離を詰めると、それを見下ろした。
灰とも銀とも言える髪をした、外国の血を感じさせる子供だ。
椿の生け垣の影に屈み込んでいる所為で、一層小さく見える。
その小さな手や、まろい頬は、赤黒く変色していた。
痛そうなそれらに一瞬顔をしかめかけてから、へらりと笑った。
「まぁた、こんな怪我こさえてからに」
「早く治せよ、各務」
「へえへえ」
わかりましたあ、と逆撫でする返事をしながら、男――各務は隣に屈み込んだ。
手に、頬に、あとは左足。
どこから治すべきかと考えながら、手を伸ばす。
この狂った家の中で、さらに一等狂った女の腹から生まれた子供は、こうして日々痛めつけられている。
そしてそれを治し、再び送り出すのが各務の役目だ。
(胸糞悪い。あーやだやだ)
分家も分家で、尚且椿坂家を母体とする組に所属する各務家としては、この役目を辞退する手段は持たない。
この子供自身が振り切る力を持って初めて、それは叶うだろう。
ただしその時、各務はまた別の役割を与えられるに違いない。
各務自身もまだ成人して間もないせいで、逃げる展望を思い描けないでいるのだから。
「はい、出来上がり。表面上はな。痛みが激しいところはあるか?」
「平気」
「本当にー?」
「ウザい、おっさん」
「おっ……! 俺まだ二十三なんだけど! ピッチピチの医学生だよ!?」
「十も違えば十分おっさんでしょ。あと学歴マウントは嫌われるからやめたほうがいい」
そこで初めて、目の前の子供が笑った。
内心でほっとしつつ、いっそ撫でてやろうかと手を伸ばせば、今度はすげなく避けられた。
「ガキは大人しく撫でられていろよなあ」
「そのガキより無力な大人が何言ってんだよ」
「あ゛~、可愛くねえ!」
今度こそ避けられないように、子供の頭をがしがしと撫でた。
やめろ、離せ、と言いながら撫でられる子供の首は細い。
ぐりんぐりんと揺れる頭に合わせて、ぽきりと折れそうだった。
「やめ、ろよ! 大体!」
「お」
片手で振り払われて、やや肩で息をする子供が眼光鋭く睨んできた。
降参の形で手を離しながら合わせた視線の、その瞳の中に、思わず『あの日』の色を探す。
『これは、治癒の異能を持っているのよ』
赤い唇をにぃっと上げた主家の女が言ったのは、今より数年前のことだ。
これ、と紹介と言うよりは説明された各務は、向き合う形で立っている小さな子供に礼をした。
事前に聞いた情報では、この女の息子らしい。
海外のマフィアの男との間に出来たらしいが、件の男はこの女を歯牙にも掛けず捨て置いたらしい。
らしいらしいと、伝聞の多い情報だったけれど、間違いではなかったことをこの時知った。
女はその子供に各務の異能についてを説明して、おもむろに子供に近寄った。
『え』
思わず声が出た。
女が笑みを貼り付けたまま、子供の腹にナイフを突き立てたのだ。
なんで、と呟いた子供の声は、寸分違わず各務の心の声だった。
それからのことは、もはや記憶が薄い。
子供が刺されて、自分が癒やして、それを繰り返す。
情けないことに、命ぜられたこと以外何も出来なかった。
繰り返される狂気の中、立ち込める鉄さびの臭気は子供の命がこぼれていく証跡そのものだったのに、その場で止められるのは自分だけだったのに、木偶のように突っ立っていた。
『ごめ、なさい、次、は……うまく、やり、ます』
もはや立っていられない子供が謝って、今日はこれで終いだと女はその場を後にした。
心配することもなく、一度も振り返ることなく。
傷を癒やしながらも、各務はこの空間では路傍の石でしかなかった。
その石が、子供を見下ろす。
子供の赤いビー玉のような目からころりと涙が落ちて、各務は人の心が死ぬ瞬間を見た。
あの暗さは、染みのように子供の目の奥に宿ったままだ。
ただ、浮き沈みがあるようで、今はその色が遠い。
「……大体、お前はその顔で助かっているんだ。 僕よりはマシだろ」
「…………ああもう、そう言うとこだぞー」
「何が」
「クウィリーノ坊ちゃんの悪くて良いところ」
「はあ?」
一瞬で陰りを見せる目が、ゆらゆらと揺れる。
顔が血縁上の父親によく似て『可愛い』せいで構われている子供。
きっとクウィリーノは、可愛くないほうが生きやすかったに違いない。
相変わらず人気のない庭の隅で、各務は無理矢理に笑った。
「やっぱりお前は可愛くねえなあ」
「そう」
「そうそう」
再び手を伸ばそうとして、ぱしりと躊躇いのない強さではたき落とされながら、今度は自然に笑う。
と、その可愛くない顔が、悪そうな顔に歪んだ。
「ん? 何だ急に。お兄さんぞっとしたんだけど」
「……十三だ。その年に僕は家を出る。お前もついて来い」
「は……」
「ついでに便利そうな者数人も引っ張っていく」
「おい」
「その日までお前は僕で異能を高めろ。家に従順でいろ。逆らわず、手駒を演じろ」
「ちょ」
矢継ぎ早に言われる言葉はどれも小さく早口で、子供らしからぬ平坦さだった。
口をぱくぱくとしていれば、間抜け面、と悪態を挟まれる。
本当に可愛くない顔だった。
「だから、もう個人的にはここには来るな。治癒は『あの場』だけでギリギリまで使え」
もはや声も出ず、子供を凝視する。
闇に揺らめいていた目が、ぎらぎらと輝いていた。
子供の戯言と言い切れない熱が、それにはある。
「え、何、いきなりすぎてこわ……」
「椿組に飼われるのは嫌なんだろ? 今度は僕が飼ってやるよ、『お兄ちゃん』?」
「うわあ……」
飼い殺される未来を悲観していたことを、十歳を少し超えた程度の子供に見抜かれていた。
しかもどうやら、正しく各務の『上』の立場でいるらしい。
あの悪夢が始まる前は、それでも子供の範疇にいただろうに、いつの間にか随分と酷い進化をしていたようだ。
「あ、裏切るなら覚悟してやって」
「普通に何か出来る力があるのが怖ぇ……」
「だって、気付いたんだよ。この僕が、ここの奴らに使い潰されるなんて。損失でしょ?」
「うわああ……」
今度はころりと天使のような笑顔で笑うものだから、各務は戦慄した。
これに騙される人間は多いに違いない。
各務だって、数秒前の悪人顔や悪口を目撃していなければ騙されただろう。
けれどその姿の影に、この子供に課されたもの、強制された日々が見えた気がして喉奥で呻いた。
「……しくじるなよ」
「各務もな」
ふん、と笑って、子供は背伸びをしてから家に歩を進めた。
寒々しい家に向かう姿は、やはり子供の頼りなさがあった。
「……とりあえず、そのクッソ似合わねえ悪そうな口調はやめておけよ! 人当たり良くしとけ」
「はあい」
ひらりと手を振って、子供は家に戻って行った。
その閉ざされた扉を見ていると、冬らしい寒風がびゅうと強く吹いた。
「っぶしゅっ、……あ゛ー……さっむ」
すんと鼻をすすって、両手をすり合わせる。
風邪を引いてはたまらないと、各務は帰ることにした。
赤い椿、赤い目の子供、自分の今後の身の振り方。
(やべえ……思ったより大変なことになった……)
途方に暮れて見上げた空は、雪を降らせることもなく、ただただ曇って暗かった。
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「はい、治して」
「うわ出た」
カメリアの医務室に、クウィリーノはひょいと顔を出した。
先程ねこと格闘した傷を目の前の男に見せれば、いててて、と相手が痛がった。
いい歳したおっさんの演技は無視に限る。
「まぁた、こんな怪我こさえてからに。何、マゾなの?」
「違うけど?」
「知ってるけど!」
ぶつぶつ言いながら、男――各務は異能で治してくれた。
少しの傷くらいは自己治癒に任せるけれど、これはさすがに深すぎると判断されたらしい。
その異能を行使するスピードは、長年の経験からか素早く滑らかだ。
実に使える人間になったなと、クウィリーノは内心だけで褒めた。
口に出すと調子に乗るから、褒め時を見誤ってはならない。
「ねー、今度大きめの仕事があるからさ。車待機していてくれる?」
「おお、わかった。力の使い過ぎには気をつけろよ」
「はあい」
「うわあ……」
愛想よく笑ったはずなのに、各務は嫌そうな顔をするのが面白い。
口調はなるべく柔らかく、を意識してこうなって久しいのに、未だ慣れないらしい。
厳しい口調のほうがいいのならば、各務こそがマゾだろう。
「まあ、詳細は阿左見……いや、雲右に持ってこさせるよ」
「おお」
わかったわかったと手を振って、クウィリーノの電子カルテに打ち込むのを見る。
その声が少し嬉しそうなのは、あの家を出る時に引っ張ってきた人のうちに雲右も含まれるからだ。
兄よりも父のほうが近い関わりをした相手には、やはり愛着が湧くようだ。
「各務」
「んー?」
「ここ、白髪すごいある」
「はっ!?」
バッと振り返った顔は、嘘だろ、という表情だった。
手鏡を手に、ざかざかと後頭部を搔いている。
「うっそー✩」
「おまっ……いやそれ本当だろうな? と言うか白髪が増えたら絶対お前の所為だからな!?」
「あは」
苦労を掛けているのは自覚している。
これでもある程度は自重をしているのだけれど、やはり仕事に傷はつきものであるので、なくすことは難しい。
ただ、ほんの少しだけ、本当にもう少しだけ自重をしてもいいなと、ふと思った。
「それじゃ、また来るねー」
「怪我して来んなよ」
つまりは、遊びには来ていいらしい。
お人好し、と心の中で舌を出しつつ、クウィリーノは医務室を後にした。
寒い家、赤い椿、雪の降りそうな曇天の日。
ばれたら自分が危うくなると言うのに、わざわざ関わりの薄い子供を癒やしに来た男を思い出す。
あの日家の中に戻って、何故だか鼻の奥がツンとしたことは、クウィリーノだけの思い出だった。