
人を殺そうと思うと、意外と大変だ。
それでもやっぱり、人が死ぬのはあっけない。
***
「わたし、美しい死に方を探しているの」
ぼくの初恋は、そんなことを平然と言い放つ少し変わった女性だった。
大学生になったぼくは、ぼくを引き取った青斑教授の研究室をよく訪れていた。
最初は体よく用事を言いつけられて渋々だったが、そこで飼育されている有毒生物達を眺めるのは割と好きだった。どこか親近感のようなものを感じていたのかもしれない。
青斑教授に勧められて、部屋で毒蛇も飼っていた。カナエと名付けて可愛がっていたその蛇は、今はぼくの財布になっている。
その頃には幼少から続いていた"検査"はなくなっていたけれど、年に一回程度、体内の毒素を調べる検査は続いていた。ぼくは少しずつでも体外に排出されたり、消えてなくなったりしてくれないものかと僅かに期待していたけれど、そんな気配はなく、青斑教授は何故だか喜んでいた。
ぼくの体には毒がある。
当時はまだ、人を殺すに至るものではなかった。
それでも自分の唾液や汗、涙に毒があるという事実は、人との関わりを避けるのに十分な理由だった。
友人は相変わらず少なかったし、まして恋人など作る資格はないと思っていた。
それでもやっぱり、ぼくは誰かに必要とされたかった。
きっと心のどこかで、ぼくの体質ごと受け入れてくれる誰かを待っていた。
だから姫椿冬子(ひめつばき ふゆこ)がぼくの前に現れた時、彼女が運命の人だと思ってしまった。
今思えばそれは彼女の言動と異能がそう思わせていただけで、深く思い込んでしまったのはひとえにぼくの精神性のせいだろう。
姫椿 冬子
創峰大学に通う大学生。
異能:"赤い花をわたしに頂戴"
(トリート・ライク・ア・プリンセス)
彼女はぼくと同じ大学に通う学生で、大きな目と艶やかな黒髪が美しい、それでいてどこか幼い雰囲気を持った女性だった。
自分と目を合わせた人間に"何かしてあげたい"と思わせるという異能を持つ彼女の周りには、いつも惹き寄せられるように誰かが寄り添っていた。
異能によって駆り立てられた"何かしてあげたい"という思いは、多くの人によっては何のことはない、"ジュースを一本奢ってあげよう"とか"次の講義の教室まで送っていってあげよう"とか、その程度のことだ。
そんなささやかな善意のような何かに囲まれて育った彼女は、恐れることも嫌うことも知らないように見えた。
「きみ、斑目くんよね。さっきの講義でも一緒だった」
「えっ。あ、そ、そうだっけ……ごめん、よく、おぼえてなくて」
「どうして謝るの? それより、わたし冬子よ。姫椿冬子。よろしくね」
当時のぼくは人と関わるのを極力避けていたし、見た目通りの暗い人間だったし、その頃には無理をして明るく振舞うこともしなくなっていた。そんなぼくに、たいした用事もないのに何度も話しかけてきたのは彼女くらいだった。
彼女にしてみれば、目を合わせて話した人間はみんな何かしらいいことをしてくれるのだから、相手が多少気持ち悪くとも話しかけることにはメリットがある。
それでも、たまたまいくつか同じ授業を取っていただけのぼくを覚えていてくれた。言葉を交わしてくれた。
同世代の人間と話すのが久しぶりすぎて、うまく受け答えができなかったぼくに微笑みかけてくれた。
それだけで、彼女に夢中になるには十分だった。
「ユリの花を部屋いっぱいに敷き詰めて眠ると美しく死ねるって本当かしら?」
「ユリの毒は人にはあまり……花で死にたいなら、スズランとか……」
「スズラン! かわいいお花ね、どんな風に死ねるの?」
「えっと……主な中毒症状は、嘔吐、頭痛、眩暈とか……」
「うーん、苦しそうだからやめるわ」
ぼくが有毒生物を扱う青斑研究室に入り浸っているのを見かけたのか、彼女は毒についてよく聞いてきた。
青斑教授は食事中でも延々と毒物の話をし続ける人間だったので、一応居候という形になっていたぼくも人より少し詳しくなってしまっていて、彼女の質問にはだいたい答えられた。
「……姫椿さんは、死にたいの?」
ある時、ぼくは彼女にそう聞いた。
容姿もよくて、人からちやほやされて、彼女が死にたがる理由なんて何も思いつかなかった。
彼女は大きな目でぼくを見つめ返して、細い首を傾げた。
「今は別に。でも、人はいずれ死ぬものでしょ?
それなら、歳を取ってから死ぬより、今が一番楽しくて美しいと思った瞬間がいい」
彼女はその瞳の中にぼくを捉えたまま、ゆっくりと瞬きをした。
宝石のような輝きが見えなくなる一瞬すらもどかしくて、目が離せなくなっていた。
「だから人生最高の瞬間に、綺麗なわたしのままで死にたいの」
できれば即効性があって、ほとんど苦しまずに死ねる毒がいい。
そう、彼女は言った。
「……それなら。ぼくが用意してあげる。
少し、時間がかかるかもしれないけど……君だけのために」
気付いたら零れていたその言葉は、異能によって芽生えた"何かしてあげたい"だったのかもしれないけれど。
それでも、その後ぼくがしてしまったことは間違いなくぼくの意思で、ぼくの罪だ。
ぼくの血に含まれる毒に即死性はない。それはきっと、彼女にとって理想的な毒ではない。
血やあらゆる体液が持つ毒は、人をすぐに殺すには至らない。
でも、毒を溜め続ければ、いずれは。
この血の一滴で人を殺せるようになるだろう。
そのために、飼っていた毒蛇に腕を噛ませた。
彼女を殺すために。注射の痕の上から、何度も。何度も。
この先何年かかってもいい、初めてぼくが人の役に立てると思った。
そう思えば、あれほど嫌いだった痛みすら愛おしかった。
ずっと名前をつけていなかったこの異能に、"一滴の愛"(ラスト・ギフト)と名付けたのもこの時だった。
もう少し。もう少しだけ、待っていて。
そうしたら、きっと君を綺麗に死なせてあげられる。
***
けれど彼女は、待っていてはくれなかった。
翌年、彼女は講義棟の階段から転落してあっけなく死んだ。
彼女に熱を上げていた学生の一人が、思い余ってか彼女を突き落としたのだ。
もしかしたらぼくのように、彼女の願いを叶えてやりたいと思ってしまったクチだったのかもしれない。
野次馬の隙間から見えた彼女は長い黒髪が床に扇のように広がって、細い首がおかしな角度に折れていた。
きっと理想的な死に方ではなかっただろう、と麻痺したような頭で考えながら家に帰った。
"――ほんとう? 楽しみに待ってるわ。"
ぼくが彼女に毒を贈ると誓った日、去り際に向けられた笑顔は蕩けるようで、蜜のように甘くて。
気付けば、青斑教授の飼っている毒蠍の水槽に手を差し入れていた。
注射よりもなお鋭い、文字通り突き刺される痛み。
毒液が体の中に入ってくる感覚。
思えば昔からそうだった。
痛みを我慢すれば、褒めてもらえる。
報われることがなくなっても、一度紐づけられた条件づけは簡単には消えない。
まるで涎の止められない犬のようだと思いながらも。
この無意味な代替行為を、ぼくは長いことやめることができなかった。
斑目 水緒
創峰大学に通う大学生。
いつも手や腕に包帯をしている。
異能:"一滴の愛"(ラスト・ギフト)
***
今ならきっと、望むとおりに彼女を死なせることができる。
ぼくの血や骨や肉は、大学院を出る頃にはその域まで達していた。
その後、ぼくが毒を溜め込むことを黙認していた青斑教授が亡くなって、ぼくの管理は彼の縁者に移った。
後継者は教授とは方針が違ったようで、以降故意に毒を摂取することは禁止されて、色々な体液の成分検査も月に一度に増えた。
それからこの歳になるまでぼくは一人で生活しているけれど、青斑家はずっとぼくを管理している。今住んでいる部屋も彼らが手配したものだし、担当医も青斑の人間だ。
この先もずっと、恐らくは死んだ後も。
ぼくは一種の毒物として管理され続けるだろう。
別段それが幸せだとも、不幸せだとも思わない。そうであるべきだと思う。
でもどうしたって寂しくて、人恋しくなる時があって。
多分、ぼくが教授なんかやっているのは、学生達と関わりたいからだ。
近すぎない距離で、人と関わることができるからだ。
近すぎない距離。そのはずだったのに。
「……やっぱり、だめだなぁ。ぼく」