悪霊と聖霊について
観測に理論は必須である。観測結果が如何なるものか決定(あるいは措定)する為には、理論がなくてはならない。
このことは、科学のみに及ぶ話ではない。日常の世界、そして魔術においても関わる話である。
観測の前提となり関与する理論の事を、魔術に於いては霊と呼ぶ。
そして魂魄が属する世界と合致する霊を聖霊、異なる世界の霊を悪霊と呼ぶ。
人々が時折魔がさすというのは、ほとんど断絶してるに近いがしかし、微かに、緩やかに繋がっている、異なる世界の霊が齎す影響である。
そして悪霊と聖霊の区別は、往々にして事後決定的であり、予め判断するような手立ては今の所存在しない。
──ヴィンヴェルト・ヴァンヴォルフ著『現代魔術の基礎論』より。
倫理学は論理学と同じく、世界の条件でなければならない。
──ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『草稿1914-1916』より。
始まりはたわいもなく、些細なことだったように思う。
閉鎖的な田舎では、片親が他所から来た新興宗教にのめり込んでいるというだけで、虐める理由には十分だった。
それに暴力的に対応するのには、理由さえ必要無かった。
俺は平均より、しかし子供の範疇で発育が良く、力も強かった。
自分に加害して来た者を叩きのめすのは、気持ちが良かった。
たったのそれだけ、どこにでも起こりうるような、ありふれた事だった。
そのありふれた事をしかし、母さんはこう言った。
──お前にはよくないものがついている、と。
俺はその時は、その意味が良くわからなかった。
ただ、俺を見つめる目が、怯えるように冷たく強張っていたのはわかって、それは悲しかった。
それでも嫌がらせや陰口を叩かれては頭に血が上って、力尽くで口も手も塞いで、その度に気分が高揚して、深まる孤独と最早勉学の向上にさえも向けられる怯えた目が、身に染みた。
そんな日々を続けていた。
ある日のことだった。
帰り道に野犬がいて、イヤに吠えたり唸ったりしていた。
大きな犬で、とても怖かった。
あの牙が刺さったらどうしよう。あの爪で裂かれたらどうしよう、と。
怖くて、怖くて、堪らなくて。
溢れた恐怖が、次第に苛立ちや怒りになって還えってきた。
気がつけば、俺はその犬がぐったりしてるのを見下ろしていた。
手には血が滴る大きめの石。
俺がやったらしいが、この惨状に至るまでの記憶がない。
俺は震えた。
こんなに大きな生き物を殺した恐怖に。
こんなに大きな生き物を殺せた愉悦に。
そして愉悦を覚えている──自分に。
俺はその時、漸く母さんの言っていたことの意味がわかった。
小学校で自覚が芽生え、中学校では息を潜めて過ごし、高校は遠くの学校を選んだ。
ガラの悪さで名の知れたところだったが、自分には最早そういうところにしか居場所はないだろうと思った。
そこでは自分の異常をさらに思い知らされた。
体力、筋力は最早どんな競技でも世界記録が取れそうだった。
頭に金属バットを全力で叩きつけられても平然と立ってふりかえり、バットを握り潰せた。
ナイフで切りつけられても、数秒あれば傷口は塞がった。
お陰で、一年にして高校の頭になるのに時間はかからなかった。
暴力への衝動は堪える事を覚えたが、自覚したあの日から日に日に強まる。
まるで口にしてはならない果実は手を伸ばすよう唆す蛇のように、事あるごとに囁きかけて来る。
俺はこの喧しい衝動の捌け口を外に求めた。
ただ喧嘩が強かっただけの俺に、何故か仲間としてみんなついてきてくれて、俺個人の喧嘩から学校の看板を背負った抗争になった。
どいつもこいつもロクでもない奴だけど、愉快な奴らだった。喧嘩ばかりだったけど、その日々は輝いていた。本当に大切な仲間だった。
遠征の喧嘩は全戦全勝。みるみる俺たちの影響は広まっていった。
そして──
俺と仲間は、その地域で一番になった。
最早俺たちに──俺に、拳を振るう相手はいない。
仲間達が勝利の歓喜に沸き立つ中、俺は一人安堵した。
これだけ喧嘩して、これだけのことを為せば、俺の中の暴力への欲求も収まるだろう。
俺はもう、加害の衝動に苛まれなくていい。
ロクでもないが、仲間と一緒に、これからは楽しく生きていける。
そう思っていた。
その時だった。
蛇がまた──まだ。
絡みついて、俺に囁いてきた。
『あいつら、嬉しそうだなぁ?』
『なぁ、今あいつらぶちのめしたら、あいつらどんな顔するかなぁ?』
蛇は──いや、俺は。
まだ誰かを虐げる事を望んでいた。
頂きに立って見下ろして、漸くわかってしまった。
俺に、居場所なんてない、と。
それからすぐに、あいつらを傷つける前に俺はその高校を離れ、俺は世界から捨てられた。
意味も意義もなく、手段も問わず、ただ誰かを傷つけ組み敷きたいだけの人間。
そんなものは、俺にも、世界にも、必要ないからだ。
それでも俺は諦めきれなかった。
盲目的に熱を追う蛇のように、温かな場所を求め続けた。
ワールドスワップという傍迷惑なインチキにだって縋った。
それ以外にもはや手に入れるすべはないと思った。
それでもきっと叶わないだろうと、心のどこかで諦めていた。
なのに。
──約束、です、よ。
また誰かを、そしてもしかしたら、貴女を傷つけるかもしれない。
そう言った俺の手を、それでも貴女はとって、約束してくれた。
拒否するのでもなく、拒絶するのでもなく、泣いて怒ってくれるのだと。
俺はきっと、ずっとその言葉を探していた。
本当は今だって怖い。
口ではそう言っても、もしオレが抑えきれなかったら、何もかも無かったことになるかもしれない。
でも、たとえそうだとしても。
オレは、俺は、その言葉だけで救われたんだ。
ああ、でも、ごめんね。
誰かを傷つけない事、これはきっと約束できないと思う。
例えば貴女に何かあったら、俺は見過ごせない。
なんせ世界の裏では侵略戦争が起こってるんだ、何が起こるかわからない。
それと、きちんと相談する事、これも約束できないかもしれない。
オレたちは根がロクでもないから、隠し事をするんだ。
オレだけじゃなく俺も、戦う理由がある。
このまま世界から貴女にいなくなられちゃ困る。
歌だってまだ聞いちゃいないんだ。
音楽が好きな貴女が歌う事を考えなかったとは思えない。
歌えなかっただけで、歌えるならきっと、歌いたいんだろ、貴女は。
きっとそれが許されず、貴女は否定の世界に捨てられたんだろう?
こっちの貴女曰く何らかの被害が出るみたいだけど、オレもオレと同じく頑強だからさ、きっと大丈夫だ。
きっと歌えるような心持ちになるのは時間がかかる、この戦争の合間には間に合わないかもしれない。
だから何としても、負けられない。
きっといつか、今度はオレが、俺が、貴女を認める。
そう、俺にとってもう、カイネさん、貴女はとりわけ大切なものなんだ。
じきにはぐれた仲間が迎えに来るだろう。
戦いの狼煙が上がる。
俺は今度こそ、大切なものを守れる俺になる。