※ 暴力的表現が含まれます。
私が身に纏う衣服は、一体いつのものなのか──赤く汚れていた。
その汚れがいつのものであったのかなんて、もう覚えていない。
返り血ではない。私はこれまで、だれかを殺めたことなんてなかったもの。
全部、全部。全部、
私の血だ。
『あいしてる。』
彼奴はそう言って、私を暗くて冷たい部屋へと繋ぎ止めた。
護りたいのだと。守りたいのだと。傷つけたくないのだと。熱に浮かされた目をして、男は呟いていた。
一体だれが、いつ、こんなことを頼んだというのだ。
出してと、止めてと喚いたところで聞き届けられることはなかった。
どうしてなんてこっちが聞きたい。逃げようとすれば、まるで私が悪いみたいに責められた。
その度に抑えつけられた。その度に締め上げられた。
──ある時、とうとう殴られた。
男は己の行動が信じられないというように瞠目して、困惑して、錯乱して、「もうダメだ」なんて言って。
ごき。って、何かが折れる音がして、私の意識は途絶えた。
『あいしてる。』
男はそう言って、私を強く抱き締めた。
──胸元に刃物が深々と突き刺されて、痛みに頭が真っ白になって、それ以上の記憶はない。
あいしてる、あいしてると。壊れたスピーカーみたいに、何度も耳元で男は囁いていた。
『あいしてる。』
だから誰の元にも行かないでくれと。
だからずっと傍にいてくれと。
──あいしてる。
あいしてる。あいしてる。愛してる。
だから、もう何も言わないでくれと。
だから、もう何も見ないでくれと。
だから、もう何も知らないでいてくれ。汚れないでくれ。
ごめん。
そう最後に呟いた男は、物言わぬ死体に縋り続けていた。
──こんなことばかりだ。
いい加減にして。もうやめて。たすけて。ゆるして。
どれだけ懇願しても、哀願しても、世界は私を諦めてくれやしない。
可哀想。可哀想。可哀想。可哀想。
憐れんで、悼んで、世界は私を愛そうとした。
── なにが愛だ。
ただ、愛という尊き感情を免罪符にして、横暴を許されようとしているだけではないか。
なにが愛だ。
愛という感情さえ有していれば、どのような暴力だろうと正当化できるなどと思い上がっているだけではないか。
なにが愛だ。愛しているだ。
ああそうだ、最初だってそうだった。そうだったのだ。
私はいつものように、いつもの道を通って学校から家へ帰る途中だった。
違うことといえば、その時の私はひどく浮足立っていたことだろう。
真っ赤だったランドセルはもう随分と色も剥げてしまっていて、そろそろ新しいリュックがほしいな──なんて思っていた。
だからおばあちゃんにおねだりしたのだ。
そうしたら、今度の国語のテストで90点以上取れたら新しい鞄を買ってくれるって!
私、がんばったの。わからないところはお母さんやお父さんに聞いたりした。
がんばった。がんばったの。ギリギリだったけど、90点をどうにか取ることができた。
……本当は86点だったけど、先生に物申して、三角を増やして、どうにか90点にしたの。
なのに。
なのに! どうして!!
……知らない人に、車に押し込まれた。
知らない匂いだった。知らない声だった。会ったこともない人だった。
こわかった。
殺されるんだと思った。きっと。殺されちゃうんだと思った。怖かった。
目隠しをされていたから、連れて来られた場所がどこなのかもわからなかった。
「……いや」
彼は優しかった。
ただ、外に出ようとさえしなければ。口答えさえしなければ。
彼に応えていれば。施される物に、言葉に、感情に。
「いや……」
でも
「嫌……!!」
一体どれだけの時間が過ぎていたのかはわからない。
私の不安は、恐怖は、やがて爆発した。
服に手をかけられて、私は彼を拒絶した。
わざとじゃなかったけど、私の爪は彼の皮膚を真一文字に引き裂いていた。
男は激昂した。僕を拒絶するのかと叫んだ。
なんて悪い子だと罵った。なんて可愛くない子だと嘆いた。
皮膚を切り裂かれながら、愛を吐いた。
粘膜を焼かれながら、愛を誓った。
呼吸を締め付けられながら、愛を乞うた。
網膜が干からびようとも、彼だけを見つめ続けた。
血の味を覚えながらも、望む通りに唄い続けた。
……怖かった。
怖かった怖かった怖かった怖かった怖かった怖かった怖かった!!
その後、少女は殺された。
死体は砕かれ、液体に浸され、ドラム缶に詰められた。
原型は残らなかった。
男は言った。
愛しい彼女の姿を、他のだれにも見せたくなかったのだと。
最期の彼女は、確かに、自分だけのものであったのだと。
「運が悪かったねえ」
傍にいた男は、まるでひとごとのように言う。
私は思わず面を上げて、男を見た。
今の。今までの何を。一体、どう聞いていれば。
そんな言葉が出てくるのだと思った。

……男は、微笑んでいた。
雨も降っていないというのに、私に傘を差しだしながら(一体どこから持ってきたのだろう。持ち込んだのか? 傘を?)、イバラシティで過ごしたときと何も変わらない顔で。
「……ねえ」
尋ねる。
「どうしてあなたは、──わたしが"あの子"だと気付いたの?」
私は、人間が嫌いだ。おとなが嫌いだ。
愛が嫌いだ。社会が嫌いだ。世界が嫌いだ。
私は、彼らと過ごした日々を愛しいとは思わない。
あの世界を守りたいとは思わない。
思えない。思えるわけがない。
どんなにあたたかくても、穏やかでも、幸せでも、私は忘れない。
見たところ、彼はイバラシティと変わらぬ姿をしている。
順当に考えれば、彼はアンジニティの人間ではないということだ。
私が、嫌いな人間だ。
別に私は侵略に意欲的なわけではない。
ただ、嫌いなだけなのだ。嫌いなのだ。大嫌い。
あんな世界、私を見捨てた世界なんて、壊れてしまって構わない。
例え彼が、あの世界では私の兄であっても、今の私はどうとも思わない。
私は彼と敵対する。覚悟なんて決めるまでもない。
記憶を取り戻した瞬間、私の胸にはただのひとつも未練なんてなくなった。
……だから、その前に聞きたかった。
イバラシティとは、私の姿は違う。
あの世界のように、へらへら笑って能天気に過ごしているのとはわけが違う。
だというのに、彼奴は私の姿を見て逃げるどころか言ったのだ。「サアヤ?」と。
あの人格は、私ではない。私じゃない娘のものだ。
きっと、この肉体が、有していた、最期の人格だっただけで。
私とは違って、幸せなエンディングを迎えた憎たらしい娘の……!
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ミハル 「なんとなくかなあ」 |
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転生者 「……」 |
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転生者 「……は?」 |
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ミハル 「うん。これでも一応真面目だからね。 そんな真夏に放置したカレーを見るような目しないでね」 |
少し困ったように眉を下げてはいるものの、男は微笑っていた。
あの世界とは違う私を前にしても、怯えることも惑うこともなく。
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転生者 「なんで……」 |
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ミハル 「……」 |
男は微笑んでいる。
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転生者 「なんで……ッ!」 |
まるでそれは、私を助けなかった世界のようだと思った。
まるでそれは、私を見殺しにしたおとなのようだと思った。
まるでそれは。
まるでそれは。
まるでそれは。
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ミハル 「──そもそもね」 |
男は口を開く。受け取られることのなかった傘を肩に寄せると、こてりと小首を傾げた。
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ミハル 「あっちの世界の時から、 お前がオレの妹でないことは察していたんだよ」 |
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転生者 「……!」 |
──あんな世界、どうだっていい。どうとも思わない。
だのに、彼の言葉に私は確かに動揺した。
──気付いていた。と、いうのは。
それは、つまり。
あの世界での時間さえも、
この男にとっては "本物"ではなかったということではないのか?
私は、"そういう風にされている"とはいえ、彼が、本当に兄だと思っていた。
のに。この男は。
それを、否定するのか。
……そんなのは、ずるい と。 私は。
言葉を失った私に対し、男は相変わらずの面で微笑んでいた。