林檎が浮いています。
糸に吊されているわけでもなく、透明の台座に置かれているわけでもありません。
これが、わたし――端留更田の異能です。
『とどめのひとくち(リップ・クリップ)』
唇に触れたものを止める。
林檎は浮いたまま固定され、空気はキスに息を呑み立ち竦む――。
響きだけはロマンチックな異能なのですけれどぉ、わたしはこの異能を制御できません。
端留更田
はしどめさらた。
どこにでもいる女子中学生。
『固定』の異能をもっている。
ああ、うっかり唇で触れてしまったものを固定してしまったことなんて、もう数えきれません……。
コーヒーは温かいまま固まり、白い息は磨りガラスのように固くなり、わたしの日常を阻みます。
例えそれが数秒程度のことだったとしても、すごく苦になってしまうのです。
そう、わたしにとって異能を制御できないというのは、実に実に死活問題なんですぅ。
「んぶぇっ」
そして今日も、横切った黒猫に驚いた拍子に異能は暴発。
自分の吐いた白い息にぶつかりながら、わたしはため息をつくのです。
端留便
はしどめたより。
更田の姉であり、大学生。
『流動』の異能をもっている。
「サラタ、また何か固めちゃったの?」
「う、うん……」
「ったく、私が『動かす』から場所を教えな」
「う、ううん! 今回は、すぐ、動いたから……だ、大丈夫ですぅ!」
「そうかい? 困ったら、ちゃんと言うんだよ」
「動かす」異能を持つ姉がいなければ、もっともっと苦労していたと思います。
固定の効果が消えて、霧散する吐息を見送って、わたしは学校への道を急ぎます。
わたしは、わたしがあまり好きではありません。
もうちょっと、ちゃんとできたらなって思うこともありますぅ。
爆波津中には、中学生でももっとしっかり異能をコントロールできる人がたくさんいます。
わたしだってもう三年生。来年には卒業を控えているというのに、
まだまだ全然、異能についてはうまくなりません。
もしも、もしもわたしの異能が暴発して、本当にずっと誰かが『固定』されてしまったら、
と考えると気が気ではなく、クラスの人にも内緒のままです。
つまり、わたしのことを知っている人は、そんなに多くないのです。
「は? 侵略? は??? ど、どうしろっていうんですかぁ……」
そんなわたしのところにシロナミという男の人からの連絡があったのは、ついこの間のこと。
アンジニティという世界がイバラシティに……わーるどすわっぷ?をして成り代わるために、
攻めてくるという話でした。
にわかには信じられない話でしたが、空の色がほんの少し変になったような気もします。
爆波津中でも、少しは噂になっているようで、あちこちからひそひそとした声が聞こえてきます。
それもなんだか苦になってしまって、わたしはより一層縮こまって過ごすこととなりました。
(わ、わたしなんかに何が……)
言葉通りの意味で小さなわたしに、何かが期待されている。
わたしにできることは、その日の温かさにキスをして、ほんの少し留めておくことだけなのに。
――というのが、イバラシティでのわたしの話。
「……少し卑屈すぎますかねぇ」
ハシドメ サラタ
ハザマでの端留更田の姿をしたなにか。
あるいは、
シティでなにかだった端留更田の本来の姿。
わたしの名前は端留更田。口付けで全てを縫い止める、アンジニティの住人です。
否定された理由も非常に簡潔です。
『わたしは、全てを固定する可能性を孕んでいる』。
行き交う人々も、満員の電車も、空に漂う雲さえも。
わたしがキスを落とせば、時を止める。
停止という名の滅亡を、わたしは抱えているのです。
この身体がただの少女のものであったとしても、異能の危険性は変わりません。
それは、追放に値することだとわたしも思います。
ですが、追放理由の納得と、その境遇に甘んじることとは別の話です。
「……お姉ちゃん」
ハシドメ タヨリ
わたしは、「存在しない」お姉ちゃんに思いを馳せました。
お姉ちゃんとは、わたしがよりイバラシティにおいて巧妙に潜伏できるよう組み込まれた、一種の舞台装置です。
ですから、彼女はイバラシティでもアンジニティでもない、まぼろしなのです。
そう、わたしが安心を求めて作り上げた夢のひとかけら。
それこそが、姉の正体です。
だから、本当のわたしはひとりぼっちです。
(他には誰もいなさそう、ですね……?)
幸いにして、わたしは単独で動ける立場のようでした。
確かにアンジニティの人々は不気味ですし、イバラシティの人たちも今は血眼で恐ろしいです。
みんな敵を探しています。「襲ってもいい人」を探しています。
わたしは争いが好きなわけではないので、一人歩きが丁度良いというわけです。
火の粉を払えるかは分かりませんが、人型のわたしを無理に敵視するイバラシティの人も少ないでしょう。
アンジニティの人とは、ケンカする理由がありませんし、ね?
「とにかく、そのあたりを歩いて気が合う人なり何なり、探してみるのもいいですねぇ」
有象無象が歩き回るハザマを、わたしは一歩踏み出します。
――さあ、侵略を始めましょう。
あの日、おごってもらったコーンスープの缶のぬくもりを、わたしは永遠に抱きしめたいだけなのですから。