
一日目(Thinking Rabbit)
オレはキッチンへ珈琲を取りに行き、デスクに戻った。デスクからオールド・フレスタ―の瓶を取り出し、なみなみと珈琲に注いだ。オレが珈琲を飲むときは、いつもライかコーンのウイスキー、もしくはブランデーで飲む。今日最初の依頼人がやって来たのは、オレが珈琲を半分ばかり飲んだ頃だった。
「最近私の妻に、脅迫めいた電話が、やたらとかかってくるのです。何故かつきとめて下さい」
オレは男の話に耳を傾けた。
「誰が犯人かは、私には分かっているのです」
「私ですよ…でも何故そんな事をするのか、わからないんです。引き受けて下さいますか?」
オレは、この手の依頼人にうんざりしていた。オレは、無言で立ち上がると、カシアス・クレイを思わせる蝶のようなステップから、蜂のように腰の入ったアッパーカットで男のあごを殴りつけた。男は、悲鳴を上げてオフィスを飛び出していった。オレがキッチンへ二杯目の珈琲を取りに行き、デスクに戻ると電話が鳴った。
「イバラシティの味方に付いて頂けるそうで、ありがとうございます。街じゃアレな関係でも、ハザマではお互い仲良くいきましょう」
また頭のオカシイ依頼人か。オレはそう思ったが、何やら調子が妙だ。
シロナミと名乗った、この男のことをオレは知らない。だが、オレは以前にもこんな依頼を、イバラシティを訪れる話を誰かに持ち掛けられたことがある筈なのだ。あんなドイナカの僻地に、オレのようなシチーボーイが用事などある筈もない。だがオレはここマッドシティからジョーバンアーバンライン下り線に揺られた先、イバラシティを訪れたという、ぼんやりとした記憶がある。
「ハザマの時間が来る、その時までに、イバラシティを訪れて下さい」
そうだ、そういえばあの時もそんな依頼だった。どうやら頭がオカシイのはオレ自身らしいが、オレは確信のようなモノを持って、安物のジャケットを引っ掛けると、オフィスを出て駅へと向かう。街の灯りのせいか、こんな時間にもそこらにはハトがいて、首を振りながら悠々と歩道を歩いている。オレはハトになど目をくれようともせず、自動改札機を抜けると終電間際の快速電車に駆け込んだ。マッドシティを2309に発つ車両に乗れば、日が変わる前にはホームに降りることができる。ゆっくりと階段を上がり、改札を出ると、正面の大時計がちょうど0000時の針を指す。
気がつくと、見覚えのあるような、ないような、不思議な世界。
そこに、ひとりの男。
「…はい、というわけでシロナミです。よろしくお願いしますね」
だだっ広い、閑散とした駅舎を出る。普通なら、バスターミナルでもありそうな駅前に広がっていたのは、異様な光景だった。
それは、街というよりは「荒廃した世界」とでもいうべきものだ。そこらにはハトがいて間の抜けた声で鳴いている。遠くにはビルらしき建物が見える。切り立った壁のような崖や、荒れ果てた湿地のような水辺がそこらに見える。水とも泥ともつかないものがうごめいている。あれはナレハテと言ったか、生き物にも化け物にもなれなかった無様な存在であることを、オレはどうしてだか知っているのだ。
漫画や映画のように、今から生き延びて下さい、でなければ死にます、というモノではないようだ。今更のように周囲を見ると、いつの間にこれだけ集まったのだろうか、異様な世界に戸惑いながら立ち尽くしている者が大勢いる。少し目を遠くに向けてみると、向こうにもひとかたまりの、こちらと同じような連中が集められている。
「イバラシティの味方に付く。お互い、仲良くいきましょう、か」
おおよその見当はつく。オレにイバラシティの味方として、視線の向こうにいる連中と競争をしろというのだろう。仲良くいきましょうというのは、他人と協力することが禁止されていないということだ。あまり大人数では、よほど組織が統率されていなければ互いが足手まといになるから、手で握ると書いて握手する人間を探すなら、数人がせいぜいだ。すでにそこらで手を組んでいる者もいて、小さなグループがいくつもできている。
まず考えるべきは、何があるだろうか。
一つは移動の選択肢だ。他の連中の動きを見ると、タクシー乗り場に向かっている者、視線の向こうにいる集まりに歩いて近づこうとしている者、この場に留まっている者、の三択といったところだろうか。それから、もう一つ。単独行動を望むか、仲間を探すか。オレは、そこらにいる連中に、目を配る。一人は若い女。もう一人はどこかひょうひょうとした男。そしてもう一人は、綿菓子のようなものを肩の傍に浮かせている男だ。奇妙なことこの上ないが、ここではそれも普通に見えてしまう。
たまたま近くにいた彼らに、オレが声をかけた理由は、もう一つある。なんとなくと言ってしまえばそれまでだが、彼らは三人とも悪い連中ではないように見えたし、オレは少なくとも良い人間ではないからだ。