桜が散った。花びらが土に溶けてゆく。
藤のつぼみはまだ小さくて硬い。
春が来て、過ぎ去って行く。初夏を過ぎれば暑くなっていく。
今までもずっとそうで、きっと来年もそうだ。
金魚屋は、庭の桜にも藤にも、極力手をかけずに好き放題に育たせている。
さほど多くはない木である。放っておいても日照やら掃除やらは問題なさそうだからだ。
勝手に咲いては勝手に散りゆく、勝手に育ってたまに枝を落とす、そんな植物たち。
もしも金魚屋がいなくなってもそれは変わらないだろう。
世話をするものがいなくなって駄目になってしまう、ということは恐らくないだろう。
ただ雑草の背丈が伸びて、虫が増えて、鼠が増えるだけだろう。
木のデッキは腐り落ちて。
テーブルセットは塗装が落ちて錆びていく。
傍らの瓶では金魚が白い腹を晒した後、色を濁らせて腐っていく。
蠅とボウフラが湧いて、いずれ小さな骨が沈んでいく。水は澱んで苔と黴が繁殖していく。
夢見る。
庭がそんな有様になったころには、店内も荒れているだろう。
鍵は壊れ、或いは開けっ放しで、窓硝子は割れていようが割れていまいが透明感が損なわれ。
ざらつく床。埃の匂い。
この地区は些か治安が良くないようなので、きっとゴミも散乱する。
浮浪者が貪ったであろう菓子の包装紙。売るには手間で腹いせにぶちまけられた茶葉や珈琲。
漁るためにかはたまた地震でも起こったか、棚から落ちて割れた香水瓶と、すっかり乾いて揮発した液体の跡。
あちらこちらに散らばって踏まれて砕けた、透明な欠片たち。
夢見る。
金魚屋は、自分以外を見るのが好きだ。
自分の関与しなくなった景色が好きだ。
薄煙のフィルター越し、分厚いレンズ越しでは物足りないくらいに、金魚屋は金魚屋が邪魔だ。
希死念慮だとかそういうものではない、金魚屋は痛いのも苦しいのも好きではない。
けれどいつだって金魚屋は、どこかに消えてなくなりたいのだ。決してネガティブな意味ではなく、金魚屋はそれを愛している。それらを愛するためには、金魚屋はそこから去る必要があるのだ。
例えば家族。
例えば友人。
例えば故郷。
例えば名前。
例えば年齢、性別、存在、人格、「■■■■■」という人間。
愛している。愛しているからこそ手放す。
金魚屋の人生は、いわばそれそのものが金魚屋の作品だ。
金魚堂は、金魚屋の最高で最後の愛するものになる予定だ。
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金魚屋 「……だから、あんま、侵略とか勘弁してほしいでやすねぇ…。」 |
猫はそこで目を開いた。
猫は、退屈そうに一つ大欠伸をして、歩みを再開させた。
猫にとっては、どうだっていいことだ。
今まで、なんて一つもなかったのだから。