随分梅の花が咲いてきたな。
柔らかな午後の日差しを浴びながら、丁度巣箱の点検を終えたところであった。日は傾きつつあり、この時期独特の冷えた空気を感じることができる、そんな時間帯であった。養子として世話になっている家、その庭に設置された蜜蜂の巣箱からは何匹かの蜂が顔を覗かせている。今年も無事に冬を越すことができた。このままうまくいけば、世話になっている人達に上等な蜜を届けることができるだろう。
無論、彼自身も区分としては蜂にあたるものであるから、当然自分で蜜を作ることはできるのだが。どうやら種族の関係か、或いは単純に彼にその才能が無いせいか、彼が作る蜜は一般的な蜜蜂のそれとは味も粘度も比べるべくもなかった。日々の細やかな雑用をこなしてはいるものの、それだけでずっと納屋の一部を間借りさせてもらえるとは思っていない。ただの穀潰しにはなるまいと手探りで始めた養蜂、その努力が実を結んでからは、実に良質な蜜を毎年家主に渡すことができている。
「…………」
外骨格に覆われた腕をそっと前に差し出すと、先ほど顔を出していた蜂が一匹、その爪先に止まった。忙しなく前肢を動かす様子を黙って見つめている。
明日は随分暖かくなると聞いた。換気を良くしてやらなければいけないだろう。奨励給仕を始めるなら、日が暮れるまでには準備をしておかなければ。粗目は厨に残っていただろうか――。
そんなことを考えたときだった。
――――!?
ざわりと甲殻の繋ぎ目が痺れるような感覚に襲われた。人であれば、肌が粟立つなどと形容するのだろうが、生憎彼には種族として柔らかい素肌の持ち合わせが無い。それでも彼に備わったあらゆる感覚器官が、何か良くないものがその身に迫っていると警鐘を鳴らしていた。巣箱を――と一瞬考えながら視線を動かしたその視界の端、明らかに先ほどまでとは違う、禍々しい赤に染まった空を認めた瞬間、まだ記憶に新しいあの耳障りな男の声を思い出していた。
* * *
自分の身体が内側から裏返るような、おぞましい感覚。思わず目を閉じた一瞬で、世界は変わり果てていた。
裏返ったのは本当に自分なのか――。そんなことを考えたのが、初めてではないということを彼は思い出していた。自分はつい先ほどまでここに居たのだ。先日の、あの狐目の人間の耳障りな声、それを聞いて世界が裏返り、同じように突然連れて来られたらしい者たちの中に彼も居た。
そして――
そして、自分が何者だったのかということも、明確に思い出していた。
打ち棄てられた、世界の掃き溜め。自ら背負った咎が、呪いの詞を吐きながらゆっくりと自分の中を這い上がってくる。恨みと怨みが絡みつき、やがて身体の感覚すら奪って世界の傍観者へと成り果てるのだ。渇き切った心には、どれだけ水を注いでも、どれだけ濃厚な蜜を垂らそうと、たちまち渇いて干乾びていく。
だが、もし。
もしも奴らの言う『侵略』とやらが成功し、あの仮初の存在が自分の正となるのなら。
傍観者として朽ちるのではなく、もう一度平穏な生をやり直すことが許されるのなら……。
その可能性に行き当たったとき、彼は心の奥底から粘ついた感情が湧いて出るのを感じていた。