唐突だけれど、店の名前は何と呼ぶのですか、と聞かれることが多い。何穂春宵堂。正直、こだわりがあってつけた名前では無い。東洋でよく言われる、字画とか縁起とかそういうものに近い、のだと思う。春宵堂と専ら呼ぶ。春宵という響きは可愛いし、この世界らしいと感じているので、そのように選んだということにしておきたい。この店を借りるときに、屋号は持たねばならなかったし、わずかであっても留まることを選択したのだ、留まるには力がいる、楔がいる、標がいる。それだけだ。
ただ、言ってしまえば私は、私の名前を気に入っている。それがこの世界の人たちには呼びにくい響きであったとしても。そして屋号の名を決めるその一瞬、そのような変なところで自我が首をもたげてしまったので、私は驚いた。そのくせ、春宵と呼ぶからにはそのもたげた自我は今はどこに行ってしまったのだろう。
そのあと、名前は呪だと、客待ちの間に読んだ本にも書いてあったのをみて少し合点がいった。そうして私が取り扱うものも、その時代においては呪とされたものだ。似た者同士、だということなのだろうか。みだりにあらわにするものではない。秘められるからこそ、けれど私の呪いはあらわにすることに力を求める。あれこれ考えて、あまりに大きな観念に自分を重ね合わせていることに、少しばかり笑ってしまう。
イバラシティに越してきて、ーー越してきてという表現は正確ではない、留まりはじめて、もう少しで季節が変わる。面白い街があるよ、と教えられてやってきたのだが、まだその面白さには出会えていない。街並みは整っていて、清潔で、人々は礼儀正しい。つまりは、その文化に私も適合せねばならなく(郷に入っては何とやら、と言うのだと教えられた)その準備で時は瞬く間に過ぎて入った。
整理されている、ということはこの世界の美点かもしれないが行政続きの面倒くささは、私のような流れ者には些か辛い。それでも、流れ者を受け入れてくれる懐の広さには感謝しなくてはならないことは、もちろんわかりきっていることだけれど。(それが許されない世界だってあるし、入界するのに膨大な審査を求める世界だってある。定住と開業であれこれ言う私が狭量になったということかもしれない)
やっとのことで、看板を掲げてはみて、ーーポツリポツリと私の力を援けとしようと、訪ねてくれる方達もいることには、喜びしかない。こういう日々の過ごし方は新鮮で、平和で、純粋に快い。余暇の過ごし方としてはこれ以上ない。長期休暇を終えて戻ったときに、平和ボケしたとか弱くなったとか、棒術はどうしたとかあれこれ言われるかもしれないが、私はここでは「メイクアップアーティストの三月スイハ」なのだということに、不思議な心地よさを感じている。
そう、報酬としての余暇なのだ。物見遊山であれこれ、ただただ純粋に可愛いもの、美しいものを求めることができるというのは素晴らしいことじゃないか。平和ボケ万歳。
……と思って、いたのだけれど。
ある日の夕方に、唐突に武運を祈られてしまった。武運。
イバラシティへの侵略行為、というものが開始されたらしい。私はこの世界の真の住人ではないし、しばらくしたらまた別の世界へゆくつもりだったので、正直最初に浮かんだ感想は、タイミングが悪すぎるんじゃないかそんな不運体質だったか、だった。正直、世界へこんな風に侵略できるなんて能力は聞いたことがない。そんなことができるのであれば、私はこんな悠長に世界間旅行などできないし、世の中はもっと物騒になっているはずだ。
(私が知らないだけで、行ったことがないだけで、それこそ私の幸運値が高くて巻き込まれたことがないだけで世の中には湧いているってことだろうか?)
……いや、そんなことはない。
世界への侵略。それはまさに彼の方の領域で為されていることじゃないか。砂に焼けた美しい世界を護るための、戦い。呪われ、侵食されてゆく、夜を取り戻すための戦い。それと同じものがここに再現されようとしている、ということ? ーーわからない。わからないけれど。
榊という男がコンタクトを取ってきたのは夕方だ。夜が始まる。夜に、呼ばれているのかもしれない。もしそうだとするのであれば、純粋な夜に触れるのは随分と久し振りのことで、少しばかり身震いがする。随分と前に訪れたあの世界のことを思い出す。またいつか遊びにおいで、と笑ってくれたひとたち。呼ばれているのなら、答えよう。呼ぶと言う行為は、それもまた呪なのだろうから。
夜が始まる。
アンジニティに、あるいはそのいくさばに、私の粧を照らす光があることを祈ろう。