Diary
「ネルを僕にください。」
人間をもらう、あげる、というのはどうにも変な言い回しだと思うけれど、その時は他にいい言葉が見つからなかった。
僕が義父さん(予定)にそう言って頭を下げたのと、義父さんが僕を殴ったのは概ね同時だった。
歴戦の竜騎士でもある義父さんの拳は鈍い音を立てて僕の頬骨にめり込んだ。
頭が揺れて、首が変な方向に曲がりそうになったけれど、それだけだった。
二人とも座っていて、人を殴るのには到底向かない姿勢だったことが幸いしたのだと思う。
立っていたら壁まで吹き飛んでいただろう。
「駄目だ」
義父さんは震える声でそう言うと立ち上がってそのまま部屋から出て行った。
情けないことに僕は痛みと熱さをこらえるので一杯だった。
ネルと義母さんが義父さんの背中に呼びかける。
***
「……大丈夫?」
ネルが青白い冷気を纏わせた白い指で僕の頬を撫でる。
すぐにとは行かないけれどゆっくりと頬の熱さがとれていった。
「うん。けっこう…平気になったよ。」
とは言うもののまだ喋りにくい。
それを察したネルの綺麗な眉が自分を責めるように歪められた。
ネルは回復魔法の類が苦手だ。
回復が得意な僕が自分で治せば、ネルの表情はちょっとは明るくなるんだろうけれど…
でもこの痛みを魔法で取り去ってはいけない気がした。
だからかわりにネルを安心させるような言葉を連ねる。
「落ち着いて話し合えば義父さんもわかってくれるよ。気長に待とう。」
「……無理だと思う」
安心させたかった人に否定された。
「あの人、一度頭を冷まさないと。」
「え、だから…今義母さんがなだめにいってくれてるわけだし、時間を置いて…」
ネルが今度は冷たい色の目の色だけで否定を重ねた。
いつもどおりの無表情にごく近い顔だけれど、目の中には吹雪が吹き荒れていた。
わかりにくいけれどネルは意外と激情家だ。
「甘やかしちゃ……駄目」
ネル。それは冷却期間じゃなくて氷河期って言うんじゃないかなぁ。
***
とるものもとらず、僕らはある丘へとやってきた。
連れてこられたとも言うんだけど。
そこは随分と空が高い場所で、僕は郷愁に襲われそうになったけれど今はそれどころではないから我慢した。
ここはホタルブクロの丘という、らしい。
世界で一番弱い精霊が住んでいる、らしい。
なぜ「らしい」なのかといえば道中ネルに聞かされた話だからだ。
「ネルが家出って…また随分思い切ったことをするね」
「……」
「あ。そうか。これって駆け落ちか。」
察しの悪い僕にネルが切なげな目で言葉の言いかえを要求してくる。
言われてみれば駆け落ちだった。
言われてないけど。
「ホタルブクロに聞いたんだ…最近ここに非正規のゲートが開いているから…」
「非正規ゲートから異世界に行けば……確かに、さすがに追いかけてこられないだろうね」
異世界に家出って、規模が大きすぎて追いかけるどころか自分が帰ってこれなさそうな気しかしない。
けれどもネルが僕のために用意してくれた道で、僕もそれに答える用意がある。
見たことのない魔法陣が僕たちの足元に光で描かれた。
ゲートだ。
どこに通じる場所かもわからないけれど、不思議と不安はない。
隣にネルがいるせいだろう。
異世界で、愛する人と結ばれる。
そんな文章を連想するにいたって僕は苦笑した。
「フェイト?」
「ん、なんでもないよ。行こう。誰も知らない場所へ」
義父さんと義母さんと一緒じゃないか。
そう考えるとおかしくなった。
まぁ、元々そうなんだけど。という心中の言葉を無視するように、ゲートの光が消え去った。
***
「……しんだ、のですか?」
ホタルブクロの花で出来た帽子を被った、親指ほどの大きさの精霊が呆然と二人の冷たくなった体を見ていた。
二人は手を繋いだまま丘に倒れ、その唇から息がもれることはなかった。
ゲートを開く技は至難を極める。
ゆえに規定の場所に開くのが慣例だ。
規定から外れた、そして世界で一番弱い精霊が住まう丘で行われた召喚は失敗してしまったのだろう。
久方ぶりの客人に喜んでいた精霊はいまや怯えるばかりであった。
その時遠方から恐ろしく力強い、巨大な猛禽の羽ばたきの音が聞こえたので精霊はホタルブクロの株の間に逃げ込んだのだった。
精霊が逃げるときに見たのは青い髪の女と金髪の少年の姿だった。
彼等は早口で何ごとか言い合っていたが、すぐにまた羽ばたきの音とともに去っていった。
風を切る音が遠方へ去った後、精霊が元の場所へ取って返すと既に二つの死体はそこにはなかった。
女と少年の二人連れが持ち去ったのだろうと知れた。