Diary
その男に優れた才能はなかった。
特別、秀でた頭脳も持っていなければ魔道に精通しているわけでもない。
ほんの少し、医療に関する知識と技術を持つだけの一般人であった。
しかし、こと娘への愛情に限るのであれば。
男は世界中の何者にも敗れはしなかった。
自らの行く手を阻む男達を鏖殺し、男は壇上の棺桶へ向かった。
其処にはまだ幼い黒髪の少女が胸を串刺しにされて眠っている。
娘。
娘だ。
ああ、娘だ。
自分が誰よりも手塩にかけて何よりも大切に育ててきた娘だ。
今は亡き妻の面影を色濃く残す世界で最も美しい娘だ。
世界の全てを天秤にかけてもまだ足りぬ程に愛しい娘だ。
その娘が心臓を突き刺されて死んでいる。
そんな現実が許せるだろうか。
許せない。
許せるはずがない。
こんな下らない儀式のために娘が死んでいい訳がない。
いや、どんな理由があろうとも自分は娘の死など認めない。
娘は幸福でなければならない。
娘は永遠でなければならない。
生涯において一分の不幸も許さない。
生涯において一瞬の別離も許さない。
だからこんな現実は絶対に許さない。
怨嗟にも似た詠唱が始まる。
其の魔法の名は召喚術。
カレイディアにおける最大の神秘の一つ。
男には使えない。それどころか存在さえ知りはしない。
ただ虚空の彼方に在る筈の娘の魂へ呼び掛けているだけだ。
それは術としての形さえなさぬ嘆きの声でしかない。
娘の魂を呼び戻そうなど妄想に等しい夢物語だ。
万に一つも成功の見込みなどない。
億に一つも成し遂げることは叶わない。
それでも那由他の果てに奇跡という可能性があるならば。
男に絶望する謂れは何一つとして存在しない。
――――詠唱が響く。
その男に優れた才能はなかった。
特別、秀でた頭脳も持っていなければ魔道に精通しているわけでもない。
ほんの少し、医療に関する知識と技術を持つだけの一般人であった。
しかし、こと娘への愛情に限るのであれば。
男は世界中の何者にも敗れはしなかった。
――――全ては完璧だった。
喧騒が過ぎ去った広場で男は蘇生した娘を見つめていた。
その胸に突き刺さっていた短剣はもうない。娘自身が引き抜いた。
痛ましい傷は塞がり、肢体は滑らかに動き、意志のある言葉を話す。
全ては完璧だった。
男の妄執は遂に奇跡の領域へ届き、死した娘は死の淵より蘇った。
けれども何処かが違っていた。
髪の色が違っていた。娘の髪はもっと艶やかな漆黒だった。
冷ややかな肌が違っていた。娘の身体はもっと温かだった。
傷痕だらけの身体が違っていた。娘は清らかな処女だった。
違いはなかったことにした。
記憶が違っていることにした。
全ては完璧だった。
けれども何かが壊れていた。
表情が壊れていた。朗らかな微笑が消えていた。
精神が壊れていた。異常な知識と言葉を操った。
記憶が壊れていた。自分自身の事も忘れていた。
壊れていないことにした。
これは娘ではないと叫ぶ自分を壊すことにした。
全ては完璧だった。
――――全てが完璧になった。
――――とある百人の兵隊に紛れ込んだ偽物の話