Diary
五週間目。おれはがんばっている。
さて召喚士はどこかな、守ってやらなきゃいけないはずだがと戦場をうろついているあいだに、はぐれた。召喚士とではなくて、石楠花と、アンシャーリーと、さらには部隊全体と。しまったと思ったときにはすでに遅しで、とても手に負えない敵に周囲をかこまれていた。
おれたちが少し引きつけていたのが幸いした、くらいは思いたいが、戦果は好調だったそうだ。依代の体はずいぶん重い。血をなくしすぎたようだ。痛いというより気持ち悪い。吐き切れない嘔吐感といえばいいのか、小さい頃に腕を折ったときはこんな感じだったかもしれない。折ったばかりのときにはあまり痛みはない、視界もクリアで頭も妙に落ち着いていて、ただひたすら気持ちが悪い。そうして夜になってようやく痛みがやってくる。ずいぶんうなされた。この体にもやがて痛みが来るんだろうか?
この、痛みを自分の痛みとして把握しきれていない感覚は、おれと依代のあいだのリンクがまだうまくいっていないからだろう。痛みはどこか他人事で、神経がはねあがるような痛覚とはしばらく無縁だ。痛みはむしろ違和感として立ち現れる。しばらくして、ああ、これは痛みなのか、と気づく。慣れない。
目に映る風景もどこか夢の中のような、というと言いすぎだが、ふと現実感を失って見えるような瞬間がときおりはある。痛みが薄いというと戦場にあってはいいことのような気もするが、生きものとしてはずいぶん危険だ。とはいえおれがこの体とあまり親和を高めすぎると、実際の持ち主に返したときに、持ち主が苦労するのかもしれないが。すでにずいぶん傷ものにはしてしまっている。今さら返されても困るかもしれない。
空腹も不眠も性欲も、まだうまく実感できているとは言い難い。時間にあわせて食事をとって、満腹感よりも分量で必要線をみきわめている始末だ。女を抱こうという気もそういえばあまり起こらない。もともと性には多少淡白ではあったかもしれないが、依代の肉体はかならずしもそうではないだろう。依代の性的欲求も適度に処理してやらないとすこし不調も来るのかもしれないが、さて、食事はわかる、睡眠もわかる、すくなくとも計測や計量が可能だが、性欲を感じていないときに性交の必要量を勘定するというのはどうすればいいのか? ばかばかしいがわりに重い問題じゃあないだろうか。いや、男の肉体でまだよかったのかもしれない。女の肉体にうっかりコンファインしていたら、月に一度性的な始末をするべく内臓が剥離する日がくるのかと思うと、肝が冷える思いだ。ひと月、ふた月単位では終わらないだろう戦場に、依代との親和を増すにつれ輪郭を増す未体験の痛み。そんな社会勉強はしたくない。
コンファインは、あるファイン fine つまり線、輪郭とともにあるということだ。それはつまりある境界線、限定線のなかにあるということで、肉体という輪郭のうちに魂があることを示す、なかなかしゃれの効いた言葉と言えるだろう。ファインはそうして終末を意味し、目的も意味する。さらに言うならば死も。目的とともにある、終焉と寄り添う、死と添い遂げる、コンファインという言葉にはどこか束縛の、それも、この戦いの先におれたちの自由があるとはどうも言いにくいような永遠の束縛のイメージがある。けれどこの束縛のうちにあることなしにおれたちは戦いを続けることはできない。コンファイン、そら恐ろしいが、なにかと境界をともにすることなしには、境界の外部を外部化し、客体化し、対象とし、それに触れ、ひいては争うことはできないのだから。しかし一方でその「境界外」を明確化することは、逆の手で「境界」の明確化を、さらに言うなら「境界内」の画一化の操作を行うこともともなう。
あるとき出られなくなるコンファインがあるのかもしれない、この痛みが明白になり、おれがおれのものとしてのこの肉体の欲望を感じ、鏡をみてちらり、おれもすこし老けたかなと思う日がくるのかもしれない。そんな想像をすこしめぐらせることも、ないではない。