『紫鯤』

終わりの日の朝。
身支度をしている私にカメリアが声をかけてきた。

「どうしたの？」
『先程、森田ライを監視していた同胞から連絡がありました』

カメリアの言葉には、もう驚かない。メルンテーゼのように大きな動乱が起こっている分割世界には、私たちの同胞が様々な役割を追って複数潜入しているらしい。
私の前に姿を見せているのは「担当」のカメリアだけだけれど、当然、私以外を見張る役のひともいるわけで。

『森田ライは貴方との接触を諦め、元の世界へ帰還したとのことです』
「……はは、そりゃ良かった」

カメリアに吹っ飛ばされた後も、ライは懲りずに私に追いつこうとしていたらしい。
それを「見張り役」がうまいこと誤魔化してくれていたと、つい先日カメリアから聞いた。

『しかしながら紫鯤、貴方もじきにあの世界へと帰還する予定です。あちらに戻った直後、境戸家が接触を試みる可能性があります。我々も十分に注意はしますが、貴方自身も気をつけて行動してください』
「ん、分かってる。ありがとね」

境戸家はあの子の事も未だに追い続けているらしい。あの子の中にいた同胞はもう死んだらしいのに（これもカメリアから聞いたことだ）ご苦労な事だ。
まあ、私だって同じぐらい醜くしがみついているのだけれど。思わず自嘲気味の笑い声が漏れる。

「紫鯤、戻ったぞ」

スギの声がして、いきなり目の前の岩壁に赤いドアが「生えた」。がちゃりとそこが開いて、いつも通りの仏頂面でスギが出てくる。
私が頼んでいた品物を持って、元の世界から戻ってきたのだ。確か昨日の夜から出かけていたと思う。世話をかけてしまった。

「お帰り。ごめんね、結局向こうに行かせちゃった」
「気にするな。お前にかけた迷惑に比べたら屁でもない。それに、メルンテーゼは向こうよりずっと時間の流れが遅いからな。そう大変でもないんだ」

そう言ってから、スギはどこか辛そうに、眼鏡の奥の目を伏せた。

「紫鯤」
「ん？」
「お前からの頼まれ物のついでに『庭園』と接触してきた」

周りの音が遠ざかる。

「あいつらは丁度、協力者を募集していた。師匠と相談して、お前を紹介する方向で話が進んでいる」
「……」
「『鵬』と、……境戸鯤と、すぐに接触できるとは、限らない。接触できたとしても、向こうはお前のことは知らないし、お前の正体を知ってしまった場合、警戒する可能性がとても高い。それでも、向こうの世界に戻るか？」

スギの話はもっともだ。私だってここ数日間、ずっとずっと考えていたことだった。
どんなに人間を装ったって私は化け物だ。核を砕かれれば死ぬけれど、加齢による寿命はないらしい。
だから私は年を取らないし、この外見だって見せかけのものだ。私が「年を取る」擬態ができるようになれば話は別だけれど、それにしたっていつか、あの子に私の正体はバレるだろう。
その時あの子は、どんな反応をするだろう。

（……まあ、嫌がるだろうなあ。殺されちゃうかも）

彼女の道を踏み外させたのは私の同胞だ。
彼女を深く傷つけた存在がまた、今度は正体を隠して接触してきていると知ったら、彼女は私を恨むだろう。怖れるだろう。
スギはそれで私が傷ついたり、傷つけられる事を心配している。
それでも。

「行くよ。そうしたいんだ」

私はもうあいつらに捕まるつもりはないし、あいつらの言うことを聞く気なんてさらさらない。
あいつらをあの子に触れさせるつもりだって、ない。
あの子は私を知らないけれど、私はあの子を守りたい。私はそう言う風に作られていて、それはもう私の意識の骨組みにしっかりと組み込まれてしまっている。今更、消し去ることなんてできない。
だから私は彼女に会う。境戸家から彼女を守る。少なくとも、私以外に彼女を守り続けてくれる人が見つかるまでは。
あの世界は私の生まれ故郷じゃあない。本来あそこに、私の居場所はない。
だけれど、私が存在する理由は、まだあるみたいだから。

それが、私の出した結論だった。

「……分かったよ」

スギが呆れたような声色で言う。

「そこまで言うなら、もう止めない」
「わがまま言ってごめんね、スギ」
「気にするな。慣れてる」

そこでやっと私の兄弟子は笑ってくれた。
私もつられて笑いながら、カエルさんポシェットを肩に掛け直す。肩に飛び乗ってくるカメリアの頭を、軽く撫でてやって。

「さ、もう行かなくちゃ。皆を待たせちゃ悪いしね」

これからどうなるかなんて、何も分からないけれど。
まあ何とかなるさ、なんて思いながら、私は足を踏み出した。

ぶん、と大剣を一振りして、快活に笑う。