山の村にはヤガトという医者がいました。
ヤガトは腕の良い医者でしたが
人の苦しむ様子が大好きで、
争いが起こるとすぐに駆けつけてはそれを眺めていました。



気づいたのは、彷徨い疲れて路肩の石に腰を下ろした時だった。
足跡がない、普通石鹸は動かない、山から里に降りる途中誰とも会わない、と
これまで「どうして今まで気づかなかったんだ」と自嘲どころではない現象だらけだったが
今回の気づかない規模はこれまでとは桁が違う。
目の前に巨大な塔がそびえ立っていたのだ。

巨大な塔のこれまた巨大な扉の前には一人の女が佇んでおり、
話しかけようと口を開く前に苛立った声を投げかけられた。
「やっと見つけた。あなた何でこんなとこほっつき歩いてたのよ」
「なんですか、藪から棒に。私は少々山を降りて慈善に勤しんでいただけですよ」
「『少々山を降りて』で世界またぐ奴がある！？」
苦手な性質だ。理由も説明せずにキンキン声の激情ばかりぶつけてくる。
熱毒でも飲ませてやれば良い顔で悶えるだろうかと思考がそれるが、
話の内容に引っかかりを覚えてそれを中断した。
「世界をまたぐ？」
「気づいてなかったわけ？
　メルンテーゼはあなたの住んでた山の中とは別の世界なの。
　普通の場所で樹液が宙に浮かんだりするわけないでしょう」
振り向いて樹液の方を見る。いつもと変わらず、空中で形を変えながら光っている。
「……確かに」
「今気づいたって顔ね。こんな鈍さで診察やってたのかしら……」
「それより、何の用ですか？あなたは誰ですか？この塔は？」
初対面の相手からこの態度、声を出す腹が立ち上がっても仕方がないだろう。
明らかに怒りを含んだ口に対し、女は思ったより簡略に、思いもしないことを説明した。

「私はテデリア。霊塔の番人にして、彷徨える伝承に手を伸ばす者。
　霊塔は神々と妖かしの住む世界の入口。
　私はあなたをこの塔に入れるべく来ました。以上」

「……は？」
「まあこれだけじゃ意味がわからないと思うから噛み砕いて説明するけれど。
　あなたの存在はもう伝承なのよ。
　村にいた頃からしていろんな評判立ってたのは気づいてるでしょ？
　あなたがいなくなってから69年が経って
　ヤガトという妖怪の存在が語り継がれるようになったわけ。
　『人間に化けて医者の真似をする狐』だってね」
「は？」
意味がわからない。
69年が経った？俺が妖怪？
回転する頭を整理しようとひとつひとつの出来事をまとめていこうとするが
どうしても思考の箱に収まろうとしない。
様子を見かねてか、テデリアが更に口を開いた。

「生きている人間だと面倒臭いわね……選択肢だけ出すわ。
　あなたは元の山に帰りたい？
　それとも永遠にメルンテーゼで彷徨いたい？
　帰るなら塔においでなさい。彷徨いたいならそうしていなさい。
　このふたつ以外に私にできることはない。さっさと決めて」

選択肢とは受け答える人間の思考を狭める道具だ。
しかし実際提示された以外に選択肢がないのも事実だった。
これ以上里を歩いていても山へと続く足がかりは見つかりそうになく
帰れると明言されたならばこれに乗る以外はなかった。
だが、霊塔と呼ばれる存在に踏み込んで元の自分でいられるのかどうか、
おそらく塔や山でこれから明らかになる真実に己が耐えられるか、
『人間としての』本能も警告を発し続けている。
結論の先延ばしは最後の一言であっさりと却下された。
却下どころか脅迫だろうか、武器をちらつかせ始めている。
思い切り、最大の懸念を口にする。

「その塔から出ることはできますか？
　神々と妖かしの住む世界の入口と言いましたが、それ以外の……
　人間と関わることはできますか？」

「できるわよ。
　霊塔に入るというのは、人間から人外に変わるということ。
　別に塔の中に幽閉するわけじゃないの」

もともと執着は少ない生き方だった。
猟師……唯一の親友・ザーテが生きていて、あいつにもう一度会えるなら。
人外になろうとも。己が失われても。
艱難辛苦の責め苦を受けて、なお死ねずとも構わない。


「……そうでしたら、構いません。
　塔の中にご案内いただけますか？」
「はいどうも。それじゃ私の手を握って」



「『医狐ヤガト』　入ります」



昔々、山にヤガトという医者狐がおったとさ。
争いのある場所に出るから、戦の前兆とも呼ばれておるのう。
ヤガトはよく人を騙して苦しめたが
善い人間にはあらゆる病苦を遠ざける薬を授けたと。
親切にしてくれた猟師を探して、今も山に住んでいるそうじゃ。

物影から顔を出し。すっとマーガレットの横に――


とみせかけてマーガレットより大分後ろの方に陣取った。