「随分、腫れてしまったな」


　泣き過ぎて熱を持った目許に、大きな手が触れてくる。
　けして冷たくはないはずのその指がいつもよりひんやりとして感じられるから、やはり相手が言うように大分腫れてしまっているのだろう。
　そんな風に思うカサネは、むすりと不機嫌そうに唇を引き結んで視線を伏せていた。


（……こんなことに、なるはずでは…）


　みっともなく子供みたいに泣いてしまった後で、一体どんな顔をすればいいのか分からない。
　相手がそんな自分のことを分かってくれて、微笑ましいというように目を細めているので、余計に。

　自分の想いは一方通行だと思っていた。
　ずっと拒まれていたのは、彼にその気がないからだとばかり…
　だから返された想いはカサネにとっては青天の霹靂にも等しく、壁を取り払った忍の表情が柔らかいのもまた落ち着かない理由の一つだ。
　要は、冷静になって今までの自分の言動を振り返ったら尋常じゃなく照れくさくなったのである。

　柔らかな熱が戻った視線も、触れてくる手の温度も、嬉しい。
　嬉しいが、同時に凄まじく恥ずかしい。
　ので、遠慮がちに厚い胸板に手を突っ張って、触れる手と視線から逃れようとマフラーを引き上げる。


「……平気。だから、あんま、見ないで」


　もごもごと消え入りそうな声でそう告げるものの、突っ張った手を取られて抱き寄せられてしまう。
　ふ、と吐息で笑ったのが頭の天辺で感じられてうろたえる。


「嫌か？」

「……嫌じゃ、ない、けど」

「ならば、このままで」


　甘い。
　びっくりするほど甘い。
　何がって、雰囲気が。

　確かに、『欠片で済むと思うな』とは言われた。
　言われたが、まさかここまでとは思ってなかったわけで。
　今まで少しは懐に入れてもらっているのかな？とか思っていたが、とんでもない。
　現状を思えば、つい数時間前までのこの人は本当に全力で壁を作っていたのだと窺える。

　恥ずかしくて、いたたまれない。
　それなのに自分から抜け出せないのは、この腕の中の居心地がいいせいだ…最早始末に終えない。
　どうしたいのか。
　どうすればいいのか。
　未だ混乱の最中にいるような心許なさを、頭を撫でる手が有耶無耶にしていく。

　けれど、そこに浸ってしまうことはできなかった。
　

「み…伏火、さん」


　教えてもらったばかりの名前を口にするのはまだ少し慣れない。
　でも、きっとこの世界でその名前を呼ぶことができるのは自分だけだろうから。
　なるべくなら、二人でいるときは呼びたいと思って彼の本当の名前を口にする。

　視線が自分に向いた気配。
　頭を撫でていた手が止まるのを待って、今一度相手の胸元に手を当て、そっと距離を開ける。
　俯いていた視線を上げれば、どうしたのかと問う視線とぶつかった。
　真っ直ぐに返される視線にまだ心臓が慣れない。
　煩い心音を深呼吸で何とか落ち着けて、口を開く。


「あんたに…ちゃんと言っておかないといけないことがある」


　彼が主を持ち、その血筋のために命を張るのと同じように、自分にも命を懸ける役割がある。
　それはカサネの与り知らぬところで課せられ、定められたことではあったけれど、最後にその責務を負うと決めたのは他でもない、カサネ自身。
　本来ならば人知れぬまま、全てを闇の中に葬るべきことなのだろう……この血を繋いできた者達がそうしてきたように。
　けれど、目の前の人に関しては、黙っているべきではないと思った。

　“もしも”の時に、何も分からないのとそうでないのとではきっと違う。
　だからこそ、彼はカサネに約束してほしかったのだ…“何があっても生きることを諦めないこと”を。
　そしてそれは、カサネもまた彼に願うことであった。
　ゆえに――自分の知り得る真実を言葉に乗せるのだ。


「俺がこの世界に召喚されたのは、一揆のためじゃない」


　赤い隻眼が僅かに見開かれた。
　術者不明の大規模召喚に巻き込まれたのは互いに同じ…そう思っていたからこそ、一番最初に情報を交換し合う協定を結んだのだから驚くのも無理はない。　
　言ってから誤解されそうな言葉になってしまったことに気付き、カサネは慌てて続ける。


「俺自身も最近まで知らなかった…他の一揆参加者のように、そのために呼ばれたんだと思ってた」


　思い返せば、符牒となるものはそこかしこにあった。
　最初のエンブリオであるクレノ、次いで契約したニグレドと、ルベド…魔力の暴走、夢の中の深く昏い場所…
　どれもが先祖である“あの男”に――否、更なる上位存在に繋がっていたのだ。


「アマネ・ノワール・ヴィグリードは希代の魔狩りの名手で、俺は彼の血を継ぐ先祖返り……だから、手が届いたんだ」


　侵食される世界の呼び声に、この身に流れる血は応えた。
　翼を失うほどに時を経て、狩るべきモノの知識すらも半ば失われていたにもかかわらず。


「……一揆のために頻繁に召喚を行ってるこの世界は、何ていうのかな…境界の守りが随分弱くなってるらしい」

「だから、“連中”を招き入れてしまった……ヴィグリード家の、ノワールの血族の宿敵を」

「“界”を侵し、その世界の欠片である動植物に寄生して“魂”を喰らい、“肉体”という存在を乗っ取って成り代わる」

「そうやって数を増やしていって、やがて世界を喰い尽くす…そういうモノが、この世界には紛れ込んでる」


　自分で話していながら随分と突飛もない話だなと思う。
　しかし、カサネは実際に“喰われた”人間を見た。
　この手で殺して、その命を刈り取った。　

　アレはけして、夢でも、性質の悪い冗談でも、Ｂ級映画でもない。
　刃越しの感触を、カサネの掌はまだ覚えている。
　ぎゅっと拳を握って、感傷を追い払う。


「……俺の役目は、そういう連中を狩ること。かつて、彼の女神の血を引く人たちが…アマネが、そうしていたように」

「どこまでが定められてたことなのかは、分からない。でも…」


　握っていた拳を解く。
　詰めていた息を吐いて、力を抜く。
　そして、目の前の隻眼をひたと見つめた。


「これは、俺が選んで決めたこと」

「俺が決めた、“魔力を持って生まれた”理由」

「だから俺は、俺の役目を果たさなきゃならない」


　自分の知る人たちが、“ああ”なるのは嫌だ。
　守りたいと思った。
　そのために、課された役目を受け入れた。
　与えられた力を使うと決めた。

　この世界で“カサネ”を知ってくれた人たちが、一揆が終わった後に何事も無く元の生活に戻れるように。
　来るべき別れのその先を、滞りなく続けていけるように。
　目の前のこの人が、家族と共に過ごせるように。


「多分、この役目が終わらないなら…一揆が終わっても、俺はここに留まることになると思う」

「終わったからって、ちゃんと戻れる保証も無いんだけど……」

「それでも、絶対。何があっても、何年かかっても…絶対に」


　それは生半なことではなく、けして容易ではなく、限りなく不可能に近いことであるのかもしれないけれど。
　だからこそ、言葉にして、紡いで、括って、束ねる。
　そうすることで、自分にも相手にも、言葉の力が染み込めばいいと思いながら。










「絶対に、あんたのいる場所に行くから……待ってて」










　青年の想いは覚悟をこえて、決意となる。