『それだけ』で良いのだと、その声は告げた。



その日いつもの場所へ現れるなり、普段は伏せがちな目を、自ら真っ直ぐこちらへ向けて。
深い決意を窺わせる、静かで…それでいて、射抜くような強い紫。
これが戦いの中、殺意を持ったそれであったなら、微動だにせず受け流せるだろうという自負がある。

…だが、そうではない。
それは忍が今まで受けてきた眼差しの、どれとも違うものだった。

『それだけ』で良いのだと。見返りすら求めず、ただ『それだけ』を、許してくれと。
“あれ”は熱に浮かされた故の言葉だった、と。このまま夢と現の狭間に埋もれさせておこう、などと。
そんな事には決してさせまいとばかり、只管に――。
けれどそれは、ぴんと張り詰めた中、裏返しの様に滲む脆さも隠し持っていた。
それが却って奥深くに沈めた心を、今もこうしてさざ波のように揺らす。

本来相手の為を思うならば、今後はもっと距離を取るべきなのだろう。
以前にも告げた様に、自分は情を交わすべき相手ではない。
先がある身で、そんな一途なものを向けて良い相手では、決して。

ひと時の慰めと、割り切った上での戯れごとならば良い。
その相手に相応しい顔を、いくらでも望むままに作る事が出来よう。
しかしそういう類のものを望んでいるのではなかろう事など、充分過ぎる程に分かっていた。
そんな器用な真似が出来る相手ではない…むしろ、驚く程に生きる事に不器用だ。
いつかの日に見た、マフラーと伸びた髪に隠された傷痕が頭をよぎる。

一度拒まれて尚、必死に伸ばされたのであろうその手。
全てを拒み振りほどくには、きっとその人となりを知り過ぎ、情が移り過ぎていた。
“亡き主の友人と縁故ある者”という枠組みを既に越えていると、自覚する程度には。


――もし、自分が


ふと浮かびかけた考えを、すぐに打ち消す。
“もし”は、無い。今も、先にも。

その眼差し自体を否定する事はしない。そんな権利は、自分にも他の誰にも無い。
それは、他者が触れるべきではない本人だけのものだ。
けれど、いくら向けられようともこちらが返してやる事は出来ないだろう。
何よりきっと、己自身がそれを許しはすまい。

中途半端に懐に入れる様な真似を、と、どれだけ恨まれ詰られようとも構わない。
実際、酷い仕打ちをしていると自分でも思う。
それでもいつか袂を分かち、元の世界へ無事戻るまでは…
迷う背を支え、行く道に小さな灯を点す事が出来たならば、それで良い。

…だから、それまでは。



受け止め、そして拒む為の壁を決して崩すまいと――忍は、改めて胸中に誓った。

（忍がぽつりと零した言葉に珍しく憂いを感じ、微かに首を傾げた。
その言葉を吟味するかのようにしばし視線を伏せ、考える仕草を見せていたが）

（それは忍の世界の精霊との関係に対する言葉なのか…
はたまた己とエンブリオの関係に対する言葉なのか…）

（忍の口から語られた、家族の話―…母を亡くした、との言葉に若干うろたえる。
突っ込んだ話を聞いてしまったという動揺。
しかし忍が自主的に話したことゆえに、ごめんと謝るのも違う気がして、
気まずさを誤魔化すように、もぞもぞとマフラーで口元を隠す）

（でも、それを抜きにしても――言いながら、自然とマフラーを引き下げて）

（シンプルなその言葉が青年の最上級の賞賛であることに、果たして忍が気付くかどうか…）