ぼやけた視界の中心に炎が揺れている。
赤い鱗に緑の瞳。燃え盛る、熱のない炎のたてがみ。
それら全てが模倣だと、今の紫鯤は知っている。

（カメリア、ちゃん）

サラマンダーに擬態した紫鯤の同胞。
そうは思っても、紫鯤はどうしても同胞に出会えた喜びや懐かしさを感じることができないでいた。
何しろ、紫鯤が「不定物a」として過ごしていた時期の記憶は曖昧で、未だ分厚いベールの向こうにあったからだ。はっきり思い出せないものに対して喜びも懐かしさなど抱きようがない。

『紫鯤、貴方の混乱はよく分かります。ですが、それでも私は貴方と話がしたい。返事をしてもらえませんか』

相変わらず表情の読めない顔をしているが、声には確かに真摯な響きがあった。
思わず答えようとして、紫鯤は言い淀む。どんな風に切り出せばいいのだろう。
どうしても、どうやっても、紫鯤には紫鯤としての回答しか思いつかなかった。紫鯤など存在しないと言うのに、その枠組みから出られずにいたのだ。境戸家の仕込んだ檻は、紫鯤が己の素性を認識した今となってもなお、しっかりと機能していた。
仕方ないので、そのまま紫鯤として返事をすることにした。

「……何？ 私と話なんかしても、意味ないんじゃない？」

自分でも嫌になるぐらいいじけた言葉だった。しかし。

『いいえ、無意味ではありません』

カメリアは間髪入れずに否定した。

『紫鯤、今の貴方は我々の同胞達の中でも、とりわけ特異な状態に陥っている。それを貴方に説明した上で、聞きたい事があるのです』

特異。
今の紫鯤の何がおかしいと言うのだろう。外観が異常でしかないというのはさておき。

「何の、こと」
『紫鯤、貴方は我々の中でも最も若い個体であり、「主人」達が最終戦争に入る直前に作られました。そのため貴方は「主人」達に使われたことがほとんどなく、製造後の大半を「泡の異界」で冬眠して過ごしていました。今になっても、昔のことはほとんど思い出せないのではないですか？』

その通りなので、紫鯤は何も言えなくなる。
カメリアはまだ話し続けている。

『我々は様々な生物や物品に擬態し、その過程で様々な感覚に晒されます。それらのデータは我々の中に蓄積することで「枠組み」となり、やがて自我のようなものを作り出します。そうして我々は「自分」と言うものを得る』
「……」
『しかし紫鯤、貴方は違います。境戸家に発見された時、貴方には自我を発達させるほどの感覚の蓄積が無かった。だからこそ貴方は従順に境戸家の指示に従いました。そして程なくして、貴方は人間に擬態するよう指示された』

それはもう知っている。
先日スギとカメリアが話していたのを聞いていたからだ。

『これは単なる指示ではなく、人間としての五感の他に「紫鯤」というパーソナリティまでも組み込んだ、非常に複雑かつ具体的なものです。これらは貴方に埋められた事によって「枠組み」として作用した』
「……何が言いたいの？」
『貴方は予め「人間としての枠組み」を埋められた状態で擬態し、行動していました。更に貴方は人間としての五感から各種の感覚を蓄積し続けながら長期間活動していた。同一の存在に二年以上も擬態し続けた例など、我々の中でもあまり例がありません。その結果、貴方に埋められた「紫鯤」というパーソナリティは貴方の中にしっかりと根を張り、容易には切り離せないほどに一体化した』

カメリアが近づいてくる。
彼女の緑の目がしっかと、混沌の中にいる紫鯤を見据えてくる。

『はっきり申し上げましょう。今の貴方は「闇のもの」でもなく、人間でもない存在です。貴方の自我はあまりにも人間に近く育ち過ぎました。当然です、ここしばらくずっと、人間としての感覚に晒され続け、人間の価値観で世界を見ていたのですから。「闇のもの」としての貴方と「紫鯤」としての貴方、それらを分割することは最早できない。境戸家が貴方に掛けた呪文を打ち消した所で、紫鯤、貴方の人格が消滅する事はないでしょう。境戸家は貴方を初期化して、別の使い方をしようと考えていたようですが』
「……そんな、」

自分はただの実験台で、
この意識はただの枷で、意味なんかないのに、
それなのに

「それじゃあ、私は、どうしたら良いって言うの！」

自分が人間でも化物でもないものに成り果てたと悟って、紫鯤は知らず知らず声を荒げていた。
黒い体が泡立ち、あちこちに発生した口が同じことを叫ぶ。
しかしながら、カメリアは平然とした態度を崩さなかった。

『紫鯤、それは貴方が決める事です』
「な……」
『貴方は我々とは違う。我々は自我を得たと言っても、結局は奴隷の自我に過ぎない。現在もかつての「主人」達を手助けするために活動している。そうすることしか考えられないのです。しかし紫鯤、貴方の自我はとても人間に近い。つまり貴方は人間と同様「自分は何をしたいのか」という自問をする事ができる。誰の為でもなく、自分自身の為に。我々にはついぞ出来なかった事です』
「……私、は……」
『全ての秘密は日の元に晒されました。あとは貴方が、選ぶだけです。私は貴方の選択をいつまでも待ちましょう』

そう言ってカメリアは丸くなり、目を閉じた。話は終わり、と言うことらしい。
相変わらず暗がりにわだかまったまま、紫鯤は何も言えずにいる。
紫鯤の、偽物の脳髄は今までに得た情報全てを勝手に彼の前に展開してみせる。さあ判断を下せとばかりに。
しかし。

（……まだだ）

カメリアは「全ての秘密は日の元に晒された」と語った。
だがまだ一つだけ、知らないことがある。

（スギは、どうして私を作ったんだろう）
（どうして、私を逃がしたんだろう）

そう、それはまだ語られていない。
何故紫鯤は生まれ、そして匿われたのか。
何故スギは、実験台でしかない紫鯤を、無数の嘘を重ねてまで人間として扱い、逃がそうとしたのか。


（スギに、会わなきゃ）


とぷりと、黒い体が波打った。

スギの言葉を聞いた後、右手を挙げて何事かを呟くと、傍らで鋭い光を放っていたエンブリオが光を弱めてイルマの髪の中に落ち着いた。

 

ふぅっと息を吐いて呼吸を整える。

 

じりじりと仲間の後ろに移動しつつ