――それは、今よりほんの少し前のこと…



　首の後ろにちりちりとした違和感が走る。
　それは今に始まったことではなく、このエリアに足を踏み入れたときからずっと続いているものだ。


（話には聞いてたけど…）


　訓練場と呼ばれるこの地は、他の場所とは一線を画していた。
　あえて近いところを上げるとしたら…城内の地下牢だろう。
　あの場所によく似た、ことさら濃くてどこか澱んだ“闇”がそこかしこに蹲っている。
　気分のいい場所ではなかった。

　この奥に、かつて一度地下牢で見えたことのある男が待ち構えているらしい。
　以前刃を交えたのは同行者と出会う前であったから、今よりずっと色んなものが拙くて気付かなかったのだが…
　今なら多少なりとも感じ取ることが出来る。

　ここは、ただ暗いから闇が深いわけではない。
　もっと人間くさい、怨みつらみや嫉み、怒りや悲しみや絶望といった感情が寄せ集まったものの気配がする。
　それが元からあったものなのか、この先にいる男によって持ち込まれたものなのかまでは分からない。
　分かるのは、一筋縄ではいかないだろうということだけ。

　それでも、不思議と負ける気がしなかった。
　心強い同行者がいるというだけではなく、以前の自分には無かった何かが確かに存在していた。


　無意識に握り締めた掌にひやりとした感触。
　握り込んでいたのは揺らめく炎の翅を持つ、蝶の細工物。
　マフラーの端に貰ったあの人の印……その術式が発動したときに現れる火蝶を模して作ったものだ。



　頼っていい、とその人は言ってくれた。
　そのための“蝶”だからと…



　それがカサネの気持ちを知らないから出た、庇護意識からくる言葉であっても…
　弱った心臓を直撃していった言葉であっても。
　一番最初に感じたのは、ただ単純に嬉しいという感情であったのだ。

　自分とは、生きている時代が、世界が異なる人。
　召喚者の願いが叶えば、恐らくは送還されて二度と会うこともなくなるだろう。
　それがこの世界に呼ばれた者の理だとしたら、どう足掻いたところで無駄なのだ。

　あの人が自分をそういう風に見ていないことなど知っている。
　既に一度、拒まれてもいる。
　それでもあの人は、切り捨てたりしなかった。
　否定したりしなかった。

　たまたま、カサネがあの人と縁があった男の末裔で、そのためにあの人の保護対象になっているだけなのだとしても、
　縁を切って、顔を合わせないようにすることなどあの人にとっては容易いはずなのに。
　その方がきっともっと簡単に済んだはずなのに。
　それをせずにいてくれるのは、ほんの少しでも懐に入れてくれているということなのだろうか。

　いつか必ず、別れの時は来る。
　そうなったらもう、顔を見ることも、声を聞くこともできなくなる。
　ならばせめて…
　どうか…
　想い続けることだけ、許して欲しかった。

　これは自分の我侭だとカサネ自身分かっている。
　不毛だという事も重々承知だ。
　ただ、知っておいて欲しいというだけ。
　たとえ、この世界から去ったあとでカサネのことなど忘れてしまうのだとしても。


　息を吐く。
　火蝶の装飾を握る手を額につける。
　次に会ったら、その時は――

　名を呼ばれて顔を上げる。
　明るく笑う同行者にほんの僅かな笑みを返し、カサネは武器を引き抜いた。





――それが、数日前の出来事…



　いつもの場所で、いつものように、いつもと同じ人を待つ。
　やがて、知った気配が木々の隙間から現れれば、自然と鼓動は高まって。







　そうして現れたその人に、カサネは自ら視線を合わせて口を開いた。

　

（最後、付け加える様に吐息と共にぽつりと零した言葉には、
珍しくも僅かに憂いが含まれているようだった）

（本人は至って真面目に言ってはいるが、所謂
『////す、好きって訳じゃないんだから！仕方なくなんだからね！！////』
的な台詞にしか聞こえないアレであった――）