意識の無い彼女を抱きかかえて飛んだのがつい数刻前のこと。
ベッドと机と椅子と、必要最低限のものだけがそっけなく陳列された、薄暗い宿の一室。
沈み込みそうになる足をかろうじて持ち直し、彼女をベッドにそっと横たえ脈を計る。

怪我、というよりこれは・・・疲労だろうか。
擦り傷や打撲こそ多いものの、思ったより軽傷であることに張り詰めていた神経がいくらか和らぐ。

これがもう少し深刻なものであったら、自分が何をしていたか知れない。
まだ整わぬ息や眩暈に対し、頭を一つ振って自分の身体の情報を遮断する。
デスクサイドの引き出しから救急箱を出すと、そっと椅子をベッドの側にひき、静かに酷い箇所の手当を始める。

彼の使う薬品は風変わりな薬草が多い。
染みるものも少ないので、彼女の安眠を妨げることはないだろう。

当の彼は今にも目蓋を閉じかけており、動きも常と比べればずいぶん遅い。
それでも医者顔負けの手際の良さで応急措置を済ませると、
涼しすぎる肩口がこれ以上冷える前に、ブランケットをそっとかけてやる。

呼吸も随分と穏やかになったが、疲労の色が濃い。
額にはりついた前髪をそっと払いのける。
あとは・・・

彼が熱を計ろうと指の背で微かに額に触れた時、
彼女はその冷たさからか、ゆるゆると目蓋を擡げた。

去り際を誤ったかもしれない。
もう少し寝ているものと思っていたのだが

ふいに漏れた笑みは、諦めに近い苦笑だったかもしれない。

今更、どんな顔を晒しても無様なだけだ。

無様なことも承知で、軽口でやり過ごすつもりだったが、
そこまで言いかけたところで彼女は途端に跳ね起き、
食ってかからん勢いでまくしたててきた。

・・・・・・・・・

ものすごい勢いで、心配されている。


まぁ今の状況を鑑みれば、それも無理からぬことではあるのだろう。
そうでなければ彼とて彼女をこんなところまで連れては来なかっただろうから。

今回の件に関して言えば、どちらかというとこちらから怒鳴ってやりたい気持ちもあったのだが、
怪我が思ったより軽傷だったことで、気が緩んでいたところを、
まさか逆に相手から怒鳴られるとは予想だにしていなかったため、
つい、呑まれ気味になる。

だが最後のその一言にだけは、過敏すぎるほどに全身が強張った。




彼女の口からは、

今の彼女の口からは決して出ない、出てはいけない名前が聞こえたから。

幻聴かもしれない。
血も随分流したし、使える状態ではなかった移動の術を
立て続けに二度も無理矢理酷使したのだから、
意識が朦朧としていたとしても、致し方のないことだろう。

彼女は構わず感情的にまくしたてていたが、そんなことは何一つ頭に入らなかった。
なんで来たんだとか、誰にやられたとか、自分の腹の傷だとか、肌寒さだとか、
そんなことらももうどうでもよくなっていた。

確かめなければ。

”それ”は、”誰”を指しているのか。

果たして彼女は、ようやく矛を収め、
少し考えるようにして
それから、ゆるゆるとはにかんだ。



笑って　その名を、
その名として告げた。








妙に空気が薄く感じる。
鼓動がやたらとうるさいのも、きっと自身の体調のせいばかりではないだろう。


わかっていた。
その名前を言うべきではないと。
口にすれば自分がどうなるかくらいわかってはいた。

それでも、
どうしようもなく、
理性の前に本能が喉を突き動かした。

三度目の、名前を呼ぶ。

一度目は切望から、
二度目は嘆願から、

そして三度目は

深い溜息が漏れる。
肩から全て、抜いてはいけないところまで力が抜けていく。

安堵、無念、放心、遺憾、脱力、諦観、解放・・・
こういう時の気持ちはなんと言い表せばいいのだろう？


喜ばしいことではない。
彼女と縁を切る千載一遇の機会を逃したのだ。

何か言うべきなのに、言葉が出てこない。
こんなときに言うべき言葉が自分の中に一つも見つからないことに愕然とさえした。

そんな場合ではないのだ。
そんな場合ではないのに
それなのにどうして自分はこんなにも、泣きたいほどの安堵を覚えているのか。

嬉しい、なんて、
思うべきではないのに。