お世辞でしょと言わんばかりに話を聞き流していたが、前の世界の話になると肩の力が抜ける。
彼女本来の生真面目な表情が顔を出して、苦笑が零れた。

時折、ノイズのように、記憶が――いつか見た光景が、脳裏をよぎる。
それは以前とは比べ物にならない質量を伴って現れる。
都度、不自然にその記憶に気を取られる。
何事もないかのように接する彼は、おそらく、気付いてはいるのだろう。
踏み込んではこない。それが、二人の距離だから。

そんな時の、彼の言葉は大概冗談っぽい軽口で。
だから、わたしは怒ったように、拗ねたように、続けるのだ。

だから、そうやって軽口を呆れ顔で流すのは、いつものこと。
ある意味、二人の決められたテンプレートだ。
言葉は違えど、同じようなやり取りを何度も繰り返してきた。

だが、続く言葉にはいつにない響きがあった。

思わず、そんな言葉が口をついて出る。
そうやって自分の話をするのは、と心の中で付け足した。

あまり聞いたことのない、彼の話。

しばらく無言で、彼の言葉を聞く。
今まで、たくさんのものを諦めてきたのだろう。
諦めてきたというよりは、投げ捨ててきたとでもいうべきか。
「目標」のために、人であることすらも。

その不器用さは、なんとなく、わかる気がした。
一見器用で軽薄そうな彼の、本来の、真面目であるが故の不器用さ。

彼の中には、捨ててきたものを取り戻そうとか、そんな考え方はないのだろう。
愛着を覚えるくらいなら、初めから捨てたりしない。
いや、愛着を覚えるくらいなら、初めから手元に置いておいたりしない。

結局は、無責任になんてなれない、彼の、真面目さ。

言葉の合間に、乾いた足音が、さくさくと響く。
とつとつと紡がれる、独白のような言葉も乾いて聞こえるのは、この冷たい空気のせいだろうか。

あなたがわたしのことをどれくらい知ってるか、なんてわかるはずもないけれど。
あなたが「彼女」のことを理解しようとしたことくらいは、わかる。

半ば自嘲めいた気持ちで見上げていた男の視線が、ふっと下がる。
曇り空のように柔らかな色は、暖かみがないせいか、ひどく寂しい色に映った。
彼の気持ちを盗み見たような小さな罪悪感を覚えて眼を逸らす。

　　「あんたのそういうとこが好きなんだ――妬けるくらいｗ」

気持ちに隙があったからか、彼のそんな言葉に不意を突かれる。
うろたえたのもほんの一瞬のこと。

「いつもどおり」のやり取りならば、
「いつもどおり」のわたしならば、
「いつもどおり」の彼ならば――

だが、「自分が誰なんだか、よくわかんなくなる」という言葉の響きが、あまりに……
あまりにいつもと違ったから、うまく言葉が紡げない。
茶化すことも、かわすこともできずに、ただ黙りこむ。





二人の間に落ちた、沈黙の、時間。

　　「ちょうど、いいかなとは、思ったかもなぁ」

　　「それが、あなたの、本心？」


それは、「いつもどおり」の二人のやり取りには似つかわしくなかった。
ぎりぎりで、相手の内側にまで入り込んではいかない、テンプレートが崩れていく。

　　「わたしの記憶なんて消してしまえばいいわ」
　　「そうしてこの依代を持って、どこかへ行ってしまえばいいわ」
　　「あなたがほんとうにそれを、望むのなら」


彼は、依代を持つわたしの手をとった。
今まで彼がそうやって触れてきたことはない。
それ以上に――

その、あまりの冷たさに言葉を失う。

そんなことにお構いなしに、彼はわたしの手を握ったまま、額に押し当てて言葉を吐きだす。

淡々と。
それは、ただの言葉だ。
事実を確認しているだけだ。
告白でもなんでもない。







それなのに、その姿はまるで、

　――赦されざる者。

神に懺悔をする者のようだった。

その冷たさに凍った思考がようやく動き出した。
尋常ではない、と理性が警鐘を鳴らす。
話している場合なんかじゃない、手当を、と手を引こうとした。


不意に抱きすくめられた。
耳元に、掠れた声が落ちる。
温もりのない、冷たい肌。
じとりと濡れるドレス。
立ち上る、血の臭い。


　　頭の中が、真っ白だ。
　　返す言葉も見つからない。
　　いや、そうじゃない。
　　言葉より前に、手当を……

支えようと彼の背に伸ばした手は空を切る。

まるで初めから何もなかったかのように、そこには誰もいない。
彼がそこに存在したことを伝えるのは、血に濡れたドレスと、後に残るその臭いだけだった。