「よし、もう服着ていいぞ」
「ん、分かった」

俺の台詞に紫鯤が返事をする。その途端、彼の裸の背中がにわかに質感を変え、いつの間にか普段と同じくたびれた上着とTシャツに変じていた。
いつ見ても奇怪な光景だが、紫鯤本人がそれを認識している様子はない。
紫鯤の衣服は実際のところ、彼の表皮が変形したものだ。紫鯤本人は他の人間のように「着替えをしている」と思い込んでいるが、実際のところ変化に要する時間は一秒にも満たない。だがそれでは、万一旅の同行者が発生した時に不都合が生じる恐れがあったので、ある程度の時間は体から「切り離して」脱ぐことができるよう調整している。その際は表皮を脱ぐのと同時に人間そっくりの皮膚や筋肉を整形する。
勿論、この事について紫鯤は知らない。全て彼の無意識下で行うようにしてある。
だからこそ、彼の恐れや不安が強まると、彼の「衣服」にも異常が発生する。服の裾から覗く目玉や腕はそれが最も顕著に現れた例だろう。
紫鯤は今回の異変もLaWSysによるものと思い込んでいる。そう言った面では、俺は喜ぶべきなのだろう。彼の「刷り込み」はまだ、それなりの力を発揮しているようなのだから。
「ど、どうだった？」
「多少LaWSys側から影響は受けているようだ。だが今すぐどうにかなるほどじゃない。いつもより『振れ幅が大きい』ぐらいに考えておけ。当面は、様子見でいいだろう」
俺が用意しておいた台詞を吐くと、紫鯤は「そう」とだけ答えて、息を吐いた。
それを尻目に俺は考え込む。紫鯤の心身がとても不安定な状態にあることは分かったが、俺が刷り込んだ彼の自己認識は、揺らぎつつもまだ保たれている。
自分は人間であり、男性であり、紫鯤という偽名で旅をしている魔法使いである、という認識は、まだ、生きている。
しかし彼は今、その認識に疑問を抱き始めている。危険な兆候だ。彼の姿は彼の自己認識に依存している。彼が、自分は自分ではないと思ってしまったら、取り返しがつかないほど崩れてしまう可能性があった。何としてもそれは避けたいところだが……。
考えながら目線を上げる。紫鯤の左腕が視界に入った。
「……？」
微かな違和感。
少し考えた末、彼の腕輪の一つが無くなっている事に気がついた。紫水晶のビーズを数珠繋ぎにしたものだ。
紫鯤が身につけているもののうち、カエル型ポシェットと紫水晶の装飾品だけは彼の一部ではなく、俺が用意した物品だ。特に紫水晶は、彼の輪郭を確定する役割を負っている。人間一人分の質量を「固定」するにはまだ俺の力量が足りなかったので、大量に紫水晶を使うことになってしまった。
『星』を着けているからすぐに影響が出ることはないだろうが、何が起こるか分からない。無くしたらすぐに俺に連絡するように言い聞かせてあった。だがこれは、聞いていない。
「お前」
「なに？」
「腕輪、一つ足りないんじゃないのか。無くしたら連絡する事になってただろう、倒れたらどうする」
俺が尋ねると、紫鯤はぼうっとした視線をこちらに向けた。
両目を細めているせいか、ほとんど黒目しか見えない。表情の読めない、能面めいた顔。
「なくしたんじゃないんだ」

ぽつりと、放るように、紫鯤は答えた。

「食べちゃった」



黒い瞳の奥に、じわりと、紫の光が覗いた気がした。

家族で想像してみて青くなっている。

ふいに現れた男に、はっとして視線を移す。
男の礼に釣られる様に一礼すると、ニッコリと微笑んだ。

妙な笑顔を浮かべながら、まぁ、しかし一つだけ…と言いつつ、やや近すぎるくらいまで距離を詰めると、イルマなりのさりげなさでその顔を確認しながら…

じりじりと仲間の後ろに移動しつつ

男は何かぶつぶつと独り言を言っていたが、やがて一つ深呼吸をし、声を張り上げた。

声色は明るいが、その声にはどこか不自然さがある。