「うむ、修練は怠っておらんようじゃな。安心したぞ。」

　聞きなれた懐かしい声に、アイヴォリーははっと我に返った。自分の視線の先には髭の下で笑みを浮かべる歴戦のドワーフ。ふと視線を足元に下ろせば、そこには今しがた自分が屠ったであろう敵の死体が二つ。

「あ、あァ、まァ爺さんにカッコ悪ィトコは見せられねェからな。」

　取り繕うように──彼にしてみればまさに取り繕ったのだが──笑みを浮かべて、アイヴォリーは状況を確認した。大した傷は負っていない、無くしたものもない、目の前の彼もその胆力を害するほどの傷を負った様子はない。よし、問題はない。
　現状を確認してそれが大きな問題を起こしていないことを理解すると、アイヴォリーはふ、と息を吐いた。自分は声をかけられるまで、確かにあの書斎にいたのだ。腕と脚を片方ずつ失い、あの歪な指で地に伏せさせられ、唇が切れるほどにそれを噛み締めながら、憎悪でこの男を殺せるものであればお釣りが来るほどにその魔術師を憎み、睨みつけていた。そのアイヴォリーの耳元へと赤い唇を寄せ、あの詐欺師は優しく囁いたのだ。これは未来だ、と。
　確かに戦っていた記憶はある。信頼するドワーフが自分とともに戦ってくれているという安心感を感じながら、いつかの戦いでの彼に対する敗北からの自分の成長を見せるような気持ちで、アイヴォリーは確かに戦っていた。だが、その僅かに前であるはずの出来事はどこか作りものめいていて、他人の記憶を覗き見ているかのように現実感のないものだった。

「まァそうは言っても、オレの方が早くにココに来たッてだけさね。」

　それは事実だ。今しがたの戦闘で彼が目の前の戦士よりも俊敏に、的確に、強靭に動けたのは、単にアイヴォリーの方がこの世界へと渡って来てからの時間が長いというだけの理由に過ぎない。その上、彼がアイヴォリーの背中を守るように動き続けてくれたお陰で、アイヴォリーは敵の返し手を気にすることなく縦横無尽に暴れることが出来た。いうなれば、指揮官としても優秀だったそのドワーフが彼を無言の内に指揮し、鼓舞していたということだった。
　それだけの確かな、はっきりとした記憶があるというのに、それは誰かが自分の身体を使って踊っていただけだ、という明らかな、確信にも似た意識をアイヴォリーは拭うことが出来なかった。

──どうすリャイイんだ、オレは？──

　答えはない。こんなときに答えてくれた小さな存在は傍らにもういない。

「とりあえず、こんなモンで悪ィケド渡しとくぜ。」

　元々の合流の目的だった、小さな石をドワーフに渡す。それはついこの前まで“エルフの姿隠しの外套”に留め金の飾りとして使われていたものだ。この世界の素材で作られ、この世界の魔力をケープへと媒介する伝導体。それは他の物へと加工しても、これまで発揮していた効果を同じように発現することだろう。アイヴォリーにとってはもう不要のものであっても、この世界に来て間がない彼にとってみれば十分に有益なものであるはずだ。自分の使い古しを彼のドワーフに使わせる、というのはアイヴォリーにとっても気の引ける提案であったのだが、それでも使えるものは使うという探索者にとって当たり前の共通の認識から、彼はそれを提案し、ドワーフも喜んでそれを了承した。素材は元より、それに秘められた効果を発現させるためにはこの世界の“理”に慣れ親しんだ者の手で加工される必要がある。そうなれば無償という訳にもいかなくなるのだから、捨てるくらいであれば使える者が使う方が理に適っているのだ。

「さて、じゃコレでとりあえずの用事は済んだッてトコさな。マタナンか手伝えるコトがあったらイツでも言ってくれ。」

　彼が孫を見るときの眼とそう変わらない視線でアイヴォリーを見ていることで、ようやくアイヴォリーは少しだけ落ち着いたらしい。いつもの調子でそういうと、彼に背中を向けて片手を挙げた。
　ふむ、と懐かしい調子でドワーフが鼻息をひとつ。

「何があったかは知らぬが、気を付けるんじゃぞ？
　なに、なるようにしかならん。」

　背中にかけられたその言葉は、まさに祖父が孫に向かって語りかけるそれだった。


　それから少し後、だがアイヴォリーは道端に座り込んでいた。脚を投げ出し、木に背中を預け、まるで無防備な姿で、ちょうど目の前で暮れていく赤い陽を見送っていた。

「……どうしろッつーんだよ……。」

　ぽつりと口を突いて出た言葉は、まるで親を見失った幼子の発するそれだった。眩し過ぎる夕暮れの光に若干目を細め、無気力な態度でアイヴォリーは今日何度目かの溜め息をつく。
　たとえこれが自分の最期なのだとしても、傍らにいてくれた彼女が今もいるのならばまた違っただろう。自分に与えられた最期の瞬間まで、残される彼女が生き残るために動き続け、それから別れを告げただろう。だが、それさえももう叶わない。
　夜が来る。夜は人ならざるものの時刻だ。獣たちが獲物を求めて動き始め、霊たちが連れ添いを求めて彷徨い始める。だが、アイヴォリーはいつも行っていた野営の設営さえ行っていなかった。ただ傍らに荷物を放り出したままで、沈みゆく日を眺めていた。
　横手で茂みが動く微かな音が聞こえた。こんな状態でも、自分の耳は危険となるかも知れない情報を逃すことなく捉えて生き残るための方法を模索しようとしているらしい。そんなことをしたところで、それがいつになるかはともかくとして、近い内にこの身は崩壊するというのに。それでも目は、自然に投げ出した武器を求めて彷徨った。ほど近いところに鞘ごと外された長剣が見える。今から飛びつけば十分に間に合うだろう。
　それでも、アイヴォリーがしたのは、小さく吐息を漏らしただけだった。これで終わるのならば、それでも良い。小さく、片頬だけを持ち上げてアイヴォリーは冷たい笑みを浮かべていた。
　音が近づいてくる。茂みをかき分ける様子からして人型だろう。勝手にそんな分析をしている自分の頭さえ、アイヴォリーは嘲笑していた。
　音の主がようやく姿を見せる。日はもう半ばまで落ちて、彼方の森に遮られる光は暗い。現れた者に目をやることもせずに、アイヴォリーは小さく呟いた。

「ようこそ、タダのシーフの墓へ。」

　笑えねェな、と心で思いながらも、アイヴォリーの口元は相変わらず嗤っていた。

「……あんた、こんなとこで、何やってんの？
　しかも一人で暗がりで笑ってるとか、明らかに危ないわよ。」

　アイヴォリーにかけられたのは、またしても聞き慣れた声だった。