夢も見ないほど深く眠ったのはいつぶりだろうか。
　鳥の囀りと、微かに香る朝の森の匂い。
　十分な睡眠を取って自然と目を覚ます……そんな感覚。

　最初に目に入ったのは、三度目にして既に見慣れた木の天井。
　次いで目に入ったのは、傍らで椅子に座って俯く朽葉だった。


「……くちば？」

「ん…？……ああ、カサネ…起きたの？」


　カサネが掠れた声で呼んだ名に、ぴくりと反応して顔を上げた朽葉はいつも以上に柔らかな気配がする。
　目が見えない彼女は滅多に瞼を開かないから分かり難いが、どうやら眠っていたらしい。


「寝てた？悪い…」

「いいえ。目を覚ましてくれてよかったわ…貴方、２日も寝ていたのよ」

「…………２日？」

「ええ。巳南と話をしているときに、熱が上がってそのままずっとね」

「…………………………巳南、さん…？」

「お見舞いに来てくれたの、覚えてないかしら？」


　覚えてないわけではなかった。
　ただ、夢だと思った――思いたかった。
　それほどカサネには予想だにしていないことだったのと、何よりも…



ゴッ！！！！！！！



　爽やかな森の小屋の中に似つかわしくない鈍い音が響き渡る。
　寝返りの要領で体を反転させたカサネが、額をベッド脇の壁に思いっきり打ち付けたためだ。
　痛みよりも湧き上がってくる羞恥心とか後悔とかその他諸々のせいで、そのまま小さく何度もゴンゴンと額を打ちつける。

　熱に浮かされたせいで正常な判断が出来なかったにしろ、アレはない。
　流石にない。
　最悪手といっても過言ではない。　
　馬鹿か？
　馬鹿だ。
　それも超弩級の大馬鹿である。


　……決めたはずだった。
　人知れぬ物事は人知れぬまま。
　自分だけが抱えていればいいことだったのに、外に零れたばかりか本人に聞かれるとは。

　駄目だ、最悪だ。
　きっともう全部お終いだ。
　今までの居心地のいい距離感も、穏やかな雰囲気も、きっとなくなってしまう。


（……同じだ）


　自分自身がやらかした代償。
　感情の激流がもたらすものは、やはりろくでもないものでしかない。
　せっかく許されていた居場所だったのに、自ら場を乱して壊してしまった。

　結局は、変わらないのか。
　感情を抑え、口を閉ざし、存在を影のように潜めても。
　魔力の扱いを学び、その流れを教わり、御する術を得たとしても、本質が同じならば変わらないのだろうか。
　カサネがカサネである以上は、そういう宿命なのだろうか。

　
（……だったらもう、これ以上は…何も…）


　何も、求めない方が、良い。
　どうしても手放すことが出来なかったものも、やはりカサネが持ってはならなかったのだろう。
　縋るように持ち続けていたものたちだって、いずれは自分で壊してしまうに違いない。

　それならば、もう手を離そうか。
　そうしたら、今よりかは少しばかり、生き易くなるだろうか。


　ざり…と、木の壁に擦りつけた額が熱を持つ。
　壁といっても要は板だから、多少ささくれてもいるのかもしれない。
　でも、打ち付けた額のそれよりも、心臓の奥の方がずっと痛い。
　だから、これくらいなら何てことない。
　耳を塞いで目を閉ざして体を丸めてしまえば耐えられる。
　
　壁に向かった体勢のまま動かないでいると、不意に背後からズルリと何かが這い寄る気配がした。
　既に馴染んだ気配は一角大蛇のアウインだろう。
　それだけならなんとも思わなかったのに、頬に落ちてきた水滴に思わず顔を向けてしまった。
　アウインはいつかのように両目にこれでもかと涙を溜めて、ぐすぐすとしゃくり上げながら主を見下ろしていたのである。


「あ…アウイン？何？どうした？」

「かさねが、かさねが…ないているからです」


　思わず起き上がってその艶やかな鱗に触れれば、ぼったぼったと大粒の涙が溢れ出す。
　泣き声を噛み殺す舌足らずな大蛇の言葉に、泣いているのはお前だろうとカサネは首を傾げる事しか出来ない。
　それに違う、違いますと一生懸命に首を振った大蛇は、額の角の切っ先をそっとカサネの胸に――心臓の位置に触れた。


「かさねは、いたいのに、どうしてがまんするのですか。どうして、ないてるのに、なかないのですか」

「そんなに、わたしたちは、たよりになりませんか？わたしは、かさねのちからには、なれませんか？」

「わ、わたしは、かさねがだいすきなのに、かさねのために、なんにも、できないのですか！」


　そこまで一気に捲くし立てると、アウインは天を仰いでわんわんと泣き出してしまう。
　カサネが呆気にとられていると、それまで黙って成り行きを見守っていた朽葉が徐に立ち上がり、ベッドへと腰掛けた。
　ペタリ、と額に手が触れる。


「痛ッ！」

「まったく、お馬鹿さんね……何も自分から怪我することないでしょうに」


　多分に呆れを含んだ声はけれど優しく、触れる指は怪我の具合を確かめるように慎重に触れてから離れて行った。
　朽葉が小さく何事かを呟けば、ふわりと蛍火が舞う。
　彼女が掌の上に集まったその小さな光達をふぅっとカサネの方に吹きかけると、熱と痺れるような痛みは風に攫われるようにして消えていった。


「ねえ、カサネ。私たちエンブリオは、ネクターを介して主従関係を結ぶもので、人の傍にあるものだわ」

「異なる私たちは、人とは群にはなれない。でもね、だからといって心配しないわけではないのよ？」


　ぽん、と髪に手が触れる。
　細い手指。
　たおやかな彼女の温もりは、カサネの記憶にある姉の手の暖かさとよく似ていた。


「ルベドが言っていたことも今なら分かるわね……我慢して、溜め込んでいるのなんか、外から見れば丸分かりなんだわ」


　溜息を吐いた彼女の呟きはアウインの泣き声に掻き消されてカサネの耳には届かなかったが、目を閉ざしたまま向けられる表情はどこか納得したような、腑に落ちたという様子で。
　戸惑うカサネの頬に指を滑らせ、ぺちぺちと軽く叩く。


「……貴方が過ごしてきた環境や、抱えているものを私は知らないし、見えないわ」

「ここは貴方の生まれ育った世界ではないし、私達は今の貴方しか知らない……だからね、カサネ」

「悲しい時に泣いてもいいのよ」


　すとん、と、朽葉の言葉が胸に落ちてきた。

　悲しい？
　泣く？
　誰が？

　余りに呆気なく落ちてきたそれは、しばらくカサネの中で行き場なく転がって。

　悲しい…？
　何で、悲しい…？
　泣く…？
　だって、泣いても何も変わらない。変わらなかった。

　涙が省みられることはなくて、それどころか弱さだと叱られた。
　子供の頃からそうして育ってきた。

　でも、ここはそうしてカサネが生きていた世界ではないと朽葉は言う。
　痛いのにどうして泣かないのかとアウインは言う。

　……許されるのだろうか。
　弱い自分が、一時でも立ち止まることが。
　許されるのか。
　この心臓の奥の痛みを嘆くことが。
　拒絶の言葉を受けてなお、捨てきれない感情を……手放せずにいることが。


　沈黙が降りる。
　アウインの泣く声だけが響く。
　けれどやがて…


「……、…………っ」


　俯いた黒髪の隙間から、小さく小さく声が上がる。
　息を詰まらせ、鼻をすすって、こんな時まで不器用に涙を流す青年を、エンブリオ達は静かに見守っていた。

　主の想いの在り処を知っても、人ならざる身には如何ともし難い。
　寄り添いはすれど、群にはなれない彼らには、主の感情の行き先を見守る事しか出来ない。
　ただ、主が望めば手を貸すことを厭わないのがエンブリオだ。
　この不器用な青年が望むなら、その力になろうと誰もが思った。

　エンブリオはヒトの群にはなれない。
　だから寄り添う。
　主の体に、心に寄り添い、背を押し、留め、見守る。
　そうして彼ら人間と共に在ったのだ。
　今までも、そして……これからも。






＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊






　街道から少し外れたその場所へと、足を運ぶのは少し久しぶりだった。
　自然と重くなる足取りを、相当の獣たちが後から頭突きをするようにして急かされる。


「……無駄だって。絶対ないって」

「ンモー！まだグチグチ言うの？往生際悪いヨ主殿！」

「行ってみれば分かることだろう」

「……知っててわざわざ関ろうとするか普通…」

「やー？だってあの御仁さァ…言っちゃナンだけど、主殿の“普通”が適用されないと思うヨ」

――彼の時代を鑑みるのなら、何もおかしいことではない。まして、“彼女”の守役だったというのなら

「うむ」

「……私は無理に行かなくてもいいと思いますけどね」

「子蛇ちゃん黙ろうか❤」

「あーもー…ケンカすんな……あとアウイン降りろいい加減。重い…」

「嫌です。カサネは私が守るんです」

「だから何でそうなるんだよ…？」

「ホラもー…主殿が甘やかすからこうなンの！」

「えー…？俺のせいかこれ…？」


　やいのやいのと騒がしく、それでも確実にその場所へと近付いていく。
　諦め顔で一角大蛇に巻きつかれ、黒い獣と双頭の魔獣を従えた青年が向かったその場所に、赤いマフラーの忍を見つけるまで、もう間もなく。
　平然と寄越された「風邪はもういいのか？」というその問いかけに、「何で居るの…？」と返して首を傾げられるのは、更にもうちょっと先の話。







　それは青年が泣くことを思い出した朝から、少し経った日の出来事。
　

（主に食品の並ぶ表の大通りから、少し離れた小さな通りへと入って行く。
そこにも、やや小さめの露天が幾つも軒を連ねている。

ただ、露天の台に並ぶ品々は、表通りのそれとは趣がまるで違った。
――腕輪や指輪、首飾り。アミュレット。
所謂装飾品の類や、その素材までもが売られている）

（そう言って忍は、いくつかの店を指す。
店先を覗けば、確かにそこに並ぶ品は他の店よりも質が高い様だ。
精緻な彫りが施されていたり、
石や硝子を効果的に使ったデザインの装飾品が置かれている）

（そう声を掛けながら、先程の肉屋での光景を思い出す。
声を掛けても気付かないのでは…と思う程、店主の刃捌きに集中していた横顔。
この青年が作品を手掛けている時も恐らくああなのだろうなと予想して、自然に目元が緩む。

…こちらに来てからは、こういったものに触れる機会も大分減っただろう。
偶に足を伸ばした時位、僅かでも気が休まれば良い…そう思った）

＊

（暫く店先を眺め歩いた後、すぐ戻ると言い置いて、忍が路地から表通りへ踵を返す。

……言葉通り、程無く戻ってきたその手には、
短く切った竹筒が二本と小さな包みが二つ携えられていた）

（店の通りから少し離れた場所、木の根元に据え付けられたベンチへ腰を下ろす。
竹筒と包みを、カサネにも一つずつ渡した。
手に取ればそれはまだ温かく、包みは竹皮に包んだちまきのようなもの。
蓋のついた竹筒には、ほうじ茶に似た香りの温かいお茶が入っていた）

（竹筒の茶を飲みつつ、青年に声を掛ける。
ふわりとした湯気と仄かな茶の香り、
そして穏やかな朝の空気が、並んで座る二人の間にゆったりと流れた）