ふと、空気の流れを感じた。
　朽葉が帰ってきたのだろうか…？
　首を向けるよりも早く、ニグレドの驚いた声が耳に届く。



「あっれ？旦那じゃナイ！よくココが分かったネー？」

「先ほどから例の術式が発動していたからだろう」

「んー？あー、あの蝶々かァ…ナルホド」

「いいから、ちょっと道開けて。貴方達大きいんだから…ほら」

「あ、ちょ…朽葉サン?!ねェ、何で俺の目狙うの?!見えてる?!見えてんの?!」

「いやねえ…見えてたらもう少し的確に確実に仕留めるわよ」

「仕留める?!ﾅﾝﾃﾞ?!ﾅﾝﾃﾞｼﾄﾒﾙﾉﾅﾝﾃﾞ??!!」

「朽葉、本音が零れているぞ」

「あらいけない、ついうっかりと…」

「もォォォォォ!!お前らほんと仲イイよネェェェェェ?!」

「「うるさい」」

「ｴ､ｱ､ﾊｲ………いや?!今の俺悪くなくない?!ちょっと！ネエ?!」



　俄かに騒がしく…を通り越して最早煩い。
　濡れタオルの下で眉根を寄せたカサネはぬるくなった額のそれを手に取ると、のそりと体を起こし、いまだ騒ぎ続ける声の方へとぶん投げた。



「だいたいお前ｒ――へぶっ?!」

「煩ェよ…頭痛いんだから騒ぐな」
　


　ベシャッと湿った音を立ててタオルがニグレドの顔面に当たったのを見届けると、カサネは熱い息を吐き出して、立てた片膝を抱えるような体勢で力尽きる。
　さっき起きた時に比べれば多少動ける程度にはなっていたが、それもタオルを投擲する程度で精一杯だった。



（あー…クソ…頭痛い…）



　鼓動に合わせて響く痛みに耐えていると、ふとベッドの傍に誰かが近寄る気配がした。
　だが、気配はするのに、足音がしない。
　不思議に思って緩く開いた視線の先、赤い隻眼と目が合う。



「カサネ」



　落ち着いた声が名を呼ぶ。
　最近ようやく自分の名を呼ぶ際に敬称が外れたその声は、間違いなくカサネが知る人のもので。



「思ったよりかは元気そうで何よりだが、辛いなら無理せず横になった方がよかろう」



　びし、と時が止まる音が聞こえた気がした。
　今目の前にいる人は、カサネがここにいることを知らないはずだ。
　体調を崩していることも知る由はないはずで、なのに何故この人がここにいるのか意味が分からない。



「み、なみ…さん…？」



　呆気に取られたあまり、出てきたのはその人の名前だけだ。
　けれど、彼は――巳南はそれだけで察してくれたようで、一つ頷きを返してみせる。



「“標の蝶”を使ったでござろう」

「あ。……あー…」



　そういえば、あの術式は発動すると術者がそれを察知できる類のものだ。
　夢の中で闇に囚われかけたカサネが、無意識に呼んだ火の蝶……“標の蝶”は、どうやら現実世界でも実際に発動してしまっていたらしい。
　術の発動に気付いた巳南は、恐らく心配して来てくれたのだろう。
　そして朽葉が外に出ていたのは、やって来た巳南の存在に気付いたゆえ。
　巳南がカサネとは既知の間柄であると知った彼女から、こうしてくたばっている情報が伝わったのだ。
　……ついでに喧しい日常の一幕までもが彼の前に曝されてしまった、と。

　脱力し、湧き上がってきた羞恥に耐え切れず、カサネはばたりとベッドに倒れ込んだ。
　風邪の熱とは違うもので赤らんだ顔を隠すためにうつ伏せとなり、マフラーがないので枕で顔を隠す。



「……どうした？」

「…………なんで俺こうも、アンタに格好悪いとこばっかり見られんの…」



　不思議そうに振ってくる声が余計いたたまれない。
　頭に被せるようにした枕の下で、唸るように呟いたのは自分への文句である。

　そもそもこの人には借りっぱなしだ。
　魔力の暴走を拳一発で鎮めてもらったのを皮切りに、世話を焼かれる事しかしていない。
　カサネがこんな有様だから、巳南はPTに所属する身だというのに、カサネの異変を察すれば心配して来てくれるのだろう。
　それでなくても、巳南は元の世界に残してきた息子のことで心労が重なっているのに、これ以上負担をかけてどうする…

　深く反省して重く溜息を吐くと、カサネは再びのそりと起き上がった。
　案ずる視線を寄越す巳南に、大丈夫だと首を振る。



「心配かけてごめん…少し、夢身が悪かっただけなんだ…」



　アレを夢と片付けるには些か生々しかったが、今回の一件は巳南が知らずともいいことだ。
　体調を崩した本当の理由も、その果てに見つけた決意も、何一つ。

　これはカサネが選んだ道。
　人知れぬ物事は、人知れぬままでいい。
　そうだ。
　彼を巻き込むことなど出来ないのだから。
　だから――彼の中の“カサネ”は、彼が今知っている分だけでいい。



「ただの風邪だし、寝てれば治るよ」



　それは元の世界で気配を消す様にも何処か似た感覚。
　隠して、仕舞って、気付かれぬように。

　ただ、彼が無事待っている家族の元に帰れたら、それでいい。
　こうして時たま気に掛けてくれるなら、それだけで十分だ。



「……来てくれて、ありがとう」












　そう言って、青年は笑って見せた。