己がやっていることの意味は、分かっている積もりでした。
だから、いつか。
こういう日がくるかもしれないと、覚悟も、していました。

けれどもそれは、此処最近では忘れていた覚悟でした。
随意にならない身体。
枯れていくのを只待つばかりの毎日は、忘れさせるには、十分でした。
――それでも。
待ってて、と云わずに済んだ事を竜は、少しだけ、安堵しました。

曲がりなりにも、一度戻れた事。
言葉を交わす事が、叶った事。
守れない約束を更に積み上げずに済んだ事をイースは、喜びました。
――そして。
変転後の身体は、愈々の枯渇に瀕して尚、ちからの放出に適していました。

イースは。
‥厳には、その身にない交ぜになった竜の一頭は、思いました。
この身に抱えた傷も。
この身の濁りたちも。
抱えて落ちる事が出来るのではないかと、思いました。



震える腕で、身体を支える。
二つの脚で大地に立って、少し胸を逸らせて息を吸えば、冷たくなり始めた風が臓腑の隅々にまで届いた。
腕の代わりに震える息が、口から漏れる。

『　　　　　　』

それでも確かに紡いだ声で、エンブリオの名を呼ぶ。
倒れ伏す肉塊に寄り添い、気紛れでも力を添えて、命を繋いだエンブリオ。
そして、今の今まで、ぼくらが『イース』で在る為の楔として、在りつづけたエンブリオ。
――呼ばれて姿を現したそれは、はじめて会った時よりも形も力も、大きくなっているようだった。
どれくらいを一緒に過ごしただろうか。
少なくとも暖かくなり始めて、寒くなり始めるまでは一緒にいたことになるだろうか。
ネクターという赤い花を何輪捧げたろうか。
今思えば、このエンブリオもぼくらと共に在る事で共生関係にあったのかもしれないな。
‥尤も、その意図を知る手段を持たない今、身勝手な推測しか、出来ないけれど。

「突然で、ごめんね。今日まで、ありがとう」

――エンブリオは、応えない。
頷いたようにも、首を振ったようにも、不定形の姿は見えた。
どちらかを確かめる暇もなく、エンブリオは、舞い上がった。
――飛び去っていく姿を見ながら、その先に雨雲が進んできているのを見止める。
‥じきに雨になるだろう。

楔を失くした身体が、コインの変転を借りた侭の今でさえ、悲鳴を上げ始める。
‥コインの翻りで、変転を起こす事が可能なら。
此の儘すべて消え失せてしまうくらいなら。
『ぼく』に宿る微かでも、最後の生命力を振り絞ったら、その変転はもう一度起こせるんじゃないか？
そして、何より。
その助力を、欠片でも得ることが出来たら。
あとは強く、強く願う事で、『ぼくら』が持ち得た力は、持っていた力は、それを現実にするんじゃないか？

――怖れる事はないんだ。
肉塊に身を投じた時から、覚悟していたじゃないか。

変転が、終息する。
‥『終わりの変化』が身に落ちてくる。
気持ちと、持てる限りの魔力を傾けてぼくは、推論が其の儘、意の通りに運べる事を実感する。

姿が戻る力が、望みに依って歪められた力が、イース自身に死をもたらしていく。
変転した姿は中心から砕けてゆく。

――慣れ始めていた末期の痛みが、その量を増していくことに、成功を実感する。
抱えられるものはすべて持っていこう。
置いていけるものは、すべて置いていこう。
身体の傷、臓腑の傷。この身に溶かしこめる限りはすべて。
結局名前を知る事の出来なかった『誰か』も。
――そして、地を駆けられる健常で、混じり気のない身体は置いていくんだ。
竜としての丈夫で頑強な身体を、姉に置いて行くんだ。
押しつけがましいだろうなあとは、思った。
姉は怒るだろうな。
悲しみもするだろうな。
けれどぼくには、もうこの手しか残されていなかった。
いや、‥もっと早い段階だったなら、もっともっとほかの何かはあったのかもしれない。
フョードルの父親に生命力を注いで初めて気がついた数多の事を、もっと事前に把握する事が出来ていたら。
誰かの願いで、誰かの感情に身体が自ら動いていたことにもっともっと早く気が付いていたら。
その願いは、他ならぬぼくら自身の願いも含まれていることに、はっきり気が付くことが出来たなら。
もっと違う結末もあったかもしれない。

‥最後の最後に、ないものねだりか。

視点がはっきりと、別れた。
目の前には、『ぼくのかつての身体』に近い姿の竜が、静かに倒れている。
けれどそれは、水鏡に映した『ぼく』とは決定的に違う。
瞑目して尚、沈黙して尚。
それは、嘗てぼくが何度も遊んだ竜で、追いかけた竜で、捜し続けた竜。
この刹那の為だけにぼくは、此処に来た。
深呼吸をひとつ、打った。
‥身体を横たえつづけた小さな水場には、黄色い竜の傍らに佇む黒い竜が映っていた。
――ぼくはその身が崩れ始めている事を知った。
首を巡らせてみれば、翼から、指先から、黒い靄になって溶け落ち、大地に吸い込まれていっていた。
今のぼくは、肉を持たない。
妥当な最期だな、と思った。

「‥じゃあね、越ねえさん」

――嗚呼、それにしても。
もしも、ねえさんの記憶まで持っていくことが出来たら。
『忘れさせることができたら』どんなにもよかっただろうか。

――未練がましいな、とぼくは笑った。
笑って、眺めて、幕を閉じた。