いまエルの前には若き日のエル少年の姿が見える。それは次第に姿を変えていく。ボロボロの、手作り絵本を抱えた裸の少女……悪霊、いや、ミズリィの姿だ。
　デビルの持つびっくり箱が砕け散り、繊維となってミズリィを包み込む。やがてそれは紺色の詰襟とスカートとなった。

「やれやれ、昔書いた話を思い出させるためだけに、一人の人間を作るかよ」

　エルは呆れるとともに、記憶が甦るのを感じた。確かに書いていた。だが、言われるまで思い出さなかった。
　悪霊やミズリィが塩を苦手としていたのは、彼女が混沌神の化身ゆえだろう。この神は塩が苦手だった。魔法で作られた人間。彼女の記憶も人格も偽りのものだ。
　ミズリィがふらりと倒れかかる。エルはそれを抱きとめた。ゆっくりと目を覚ましたミズリィ。彼女はかなり戸惑っているようだ。

「私、夢を見ていたの。そう、エルが真っ黒になって、他のひともみんな真っ黒になって、私一人取り残されちゃった……そんな幻覚」

「大丈夫。もう忘れないよ。君は君のまま、僕はもう忘れない」

「何が起こったんだろう……私は誰なんだろう、怖い、凄く怖い真実が近くにある気がする」

　エルはにこりとウィンクをした。そして徐に背後から大皿を取り出す。皿に乗っているのは、大量のクッキーだ。

「悩みも、恐れも、クッキーを食べてコーヒーを飲めば大体解決するものさ」

「そうだね……そうだね、アハハ！　旅を続けようよ、エル！　私たちの物語を綴っていこうよ。どこまでも、どこまでも！」

　エルは片手でミズリィを抱きしめ、優しい声で言った。

「ああ、物語は続く……忘れている暇は無いぞ。ひとつひとつ、刻みつけていくんだ。消えないようにね」


***


　エルから遠い場所、切り立った崖の上、白い面布を被った白い服の少女が一人立っていた。その服は全く装飾がなく、まるで白い紙を切り取ったようだ。真っ白な白髪、色白の肌。
　彼女はしばらくエルを見下ろしていた。歩きだす彼らを見て、満足そうに頷いた後、気味の悪い笑い声をあげて谷底へと飛び降りた。彼女の身体は捩じれた螺旋となり、そのまま宙に溶けて消えた。

――彼らの物語は続く。どこまでも――





※次回から第二部がはじまります