雨が枝葉を打つ音がそこかしこから聞こえる。
　森の生き物は大半が息を潜め、いつもより静かだ。
　だからこそ、その雑音を聞き逃すことは出来ない。

　それは、カサネが知るどの生き物にも似ていなかった。
　子供が画用紙に描き殴ったような、或いは戯れに粘土で作ったような、そんな出鱈目な形をしていた。
　歪に捻れた腕や脚から、かろうじて人間の面影が窺い知れなくもないが、ぶよぶよと肥大化した胴体はおよそ生き物らしくないくすんだオレンジと緑色のまだら模様に染まり、皮膚を失ったような頭部の眼孔に眼球はなく、ぽっかりと暗い穴が開いている。
　にもかかわらず、それはカサネを“見た”。

　あるはずのない視線を感じ、咄嗟に武器を抜いたのはこの世界で研鑽された防衛本能ゆえだったのかもしれない。
　結果としてカサネは異形の初撃を防ぎ、自力で生き延びる権利を得ることに成功した。

　硬化したどす黒い爪を受け止めたことで、至近距離で異形と向き合うことになる。
　鉄錆にも似た血の匂いに腐臭が混ざって酷い臭いだ。
　意味を成さぬ呻き声を発しながら、異形がさらに体重を乗せてくる。
　舌打ちして手首を返し、刃を弾いて距離を取った。
　異形は緩慢な動作で忌々しげな呻きを上げ、しかし深追いはしないまま体を揺すっている。



「――何だ、アレ…」



　せり上がってくる嘔吐感を噛み殺しながらカサネが呟けば、太腿に擦り寄るようにクレノが寄り添って来た。



――アレは成り損ないだな

「成り損ない…？」

――魔族と一度は契約を交わし、その身と魂を差し出したものの、何らかの理由で契約の履行を拒否した者

――魂を喰らおうとする魔族に抵抗し、結果中途半端に喰われた者の成れの果てだ

――既にヒトではなく、しかし魔族としても大半は機能せず、ただただ飢えるままに貪るだけの醜悪な肉塊だ



　ああいう手合いは少なくない、とクレノは言う。
　むしろ低級な魔族にはよくあることのようで、ああなった後は命の匂いのする者を無差別に襲い、喰らい、そうして成長していくらしい。



――魔族に喰われた者は魂の輪廻から外れ、世界から居場所を失う

――肉体に終焉を、消え往く魂に安寧を…それが、ノワールの血族の使命

――死の管理者である女神の末裔、ヴィグリード家の血を継ぐ者の役目だ



　それは、つまり…



「殺せ、って…ことか」



　食べるためではなく、身を守るためでもなく、殺さなければならないから殺す。
　それは、今までカサネが生きてきた時間の何処にもない行為だ。

　かつて傷付けられ、殺してやりたいと強く願ったことがあるし、実際そうするつもりで暴れたことはあるけれど、それすらも自身を守るための自衛の延長であった。

“戦い、殺し、そうして守る”――…

　夢の中でアマネが口にした言葉。
　行為を正当化するための大義名分だが…間違ったことではないのだろう。
　永きに渡って女神の血族たちは、そうやってディオクレティア大陸から魔族が流出しないように、世界を守ってきたのだから。

　けれど、けして変えられない事実。
　人であったものの命を奪うということ。
　その魂を、終わらせるということ。

　大事な人たちを守りたいと思った気持ちに嘘偽りはない。
　だからアマネの言葉に頷いたのは、本心からだったと胸を張って言える。

　それなのに、いざ異形を前にして痛感する。

　分かったつもりになっていた。
　覚悟を決めた気になっていた。

　例え異形と化しその面影がほとんどないのだとしても、“人”を殺めるという行為に武器を持つ手が震える。
　心臓が早鐘を打つようにドクドクと身の内で暴れ、呼吸が荒くなる。
　歯の根が噛み合わない。

　当たり前だが、生まれ育った世界の倫理観がカサネには染み付いているのだ。
　人を殺してはならない、命を奪ってはならない――禁忌を犯す、罪の意識に体が拒絶反応を起こす。



――このまま放置するのなら、アレはあのまま他者を喰らい続けるだろう



　クレノの静かな声が胸に突き刺さる。



――人里に出れば、甚大な被害が出るだろうな



　クレノは“お前がやれ”とは言わない。
　ただ淡々と起こりうる可能性を提示するだけだ。
　だが、確実にカサネは追い込まれていく。
　選択を迫られる。

　目を逸らして誰かが失われるのを許容するか、自らの手で止めるのか――…

　蠢く異形は空洞の目でじっとカサネを見ていたが、カサネが容易に喰える相手ではないと思ったのか、ふいと視線を外した。
　そのまま泥を引き摺るような不快な音を立てて、移動し始める。
　カサネ以外の、誰かを喰うために。

　そう理解した瞬間、口で荒く繰り返していた呼吸はカサネの支配下に戻った。
　武器を持つ手は震えていたが、もう一方の手で無理やり押さえつけて固定する。
　尻込みしたがる体に動け動けと内心で叫び命じ、ぬかるんだ地面を踏み込んだ。



「う、あ…ああああ…！うああああああああ!!!」



　絶叫。
　雨に濡れたい服が体にまとわり付く。
　それでも刃を振りかざし、手当たり次第に切りつけた。



「ぎゃああああああああああ…!!」



　異形が悲鳴を上げる。
　人間の声で、人間と同じように。
　捻れた腕をばたつかせ、振り払うかのようにしてカサネの攻撃を止めさせようともがく。
　ぶよぶよの皮膚は刃を突き刺せば肉を断つ感触がして、どす黒く粘つく体液が溢れた。

　それでも、手は止めない。
　足を動かし、目を逸らさず、聞こえる音に集中した。
　異形の動きは緩慢で単純なものが多く、日々エンブリオ達と交戦しているカサネには容易く避けられる。
　肉を削いで、指を切断し、足に刃を突き立てて、追い込んでいく。

　やがて派手な泥飛沫を上げて、異形が膝を着いた。
　ひぃ、ひぃ、と引きつった悲鳴を上げ、許しを請うように、助けを求めるように、虚空へ指の足りない手を伸ばす。
　あからさまに弱り始めた命の気配に、終わらせようとカサネは今一歩を踏み込んで――…

　唐突に、横から来た衝撃に弾き飛ばされた。
　泥にまみれて転がり、何事かを理解する前に、漆黒の何かが覆い被さる。
　それがクレノであると気づいた瞬間、虚空に腕を伸ばしていた異形が爆ぜた。



「ああ…あああああ…ひ、が、ぁ、あ…　ぎぃゃあああああああ!!!! 」



　空気を震わせ、耳を劈くような悲鳴が上がる。
　それを打ち消すようにクレノが吼えた。
　肌で感じる、何かがせめぎ合う気配。
　エンブリオ達の特殊攻撃のようなそれに、異形の叫びが単なる声でないことを知る。

　ようやく声が途切れ、顔を上げれば……
　爆ぜた肉塊のその先に、緑や紫の血管のようなものに繋がれた人間の上半身が生えていた。
　自分と同じ一揆の参加者なのだろうか。
　裸の上半身は鍛え上げられ、カサネよりも余程逞しい男だった。
　その目が、涙に濡れてカサネを見る。
　掠れた声は雨音にかき消されて届かなかったが、唇が動くのが、分かってしまった。



　タ　　ス　　ケ　　テ　　



　項の傷痕にズキンと明確な痛みが走る。
　クレノに襟首を銜えられ、振り回されるように回避すれば、元居た場所には昆虫のような緑色の腕が刺さっていた。
　異形に下半身を取り込まれた状態の男は、助けてくれと繰り返し懇願し、その度に異形は攻撃を繰り返す。
　


――アレが、喰われた者だ



　静かな目でクレノが告げる。
　何の感慨も抱かない、見慣れた風景であるかのように睥睨して。
　実際、彼は見慣れているのだろう。
　アマネと共に、幾多の命を刈り取っていた彼には。



――そうして、アレに喰われた者もまた、ああなる



　どうする、と獣の紅眼が問う。
　カサネは口の中に入った泥を吐き捨てて、さらに重くなった体を起こした。
　立ち上がりたくないと震える膝を叱咤して、嫌だと震える手をもう一方の手で支えて。
　そうして、刃を握り直す。
　呼吸を整えて、救いを乞う男を見据える。



――首を落とすか、心臓を止めるか……連中を仕留める方法は、その二つだ

――往け！



　クレノの言葉を合図に駆け出す。
　クレノもまた同時に駆け出し、カサネを追い抜いて異形へ襲い掛かった。
　鋭い牙に腕を噛み砕かれ、痛みに男が喚く。
　異形の注意は、完全にクレノに向いていた。

　ドンッ、と強めにぶつかるような感覚。
　両手で支えた刃越しに伝わる鼓動。
　ドクリドクリと脈打って、動いて、生きていたものが、ビクリと痙攣して動かなくなる。



「あああ…あああああ…あ……ぁ…」



　心臓を貫かれた男は天を仰ぎ、幾度か引き攣れた声を上げて……どろりと溶けた。
　原型の分からない何かと化した肉塊は、やがてざらざらとした砂の様になって、雨に紛れて消えてしまった。
　後には何も残らない。
　肉片の一欠片も、男の存在も、最初から無かったかのように、世界は平然と在るばかり。



「…………」



　呆然と、カサネは手の中のナイフを見下ろす。
　肉を断った感触はいまだ生々しく残っているのに、刃には返り血も、脂も、一切残っていない。

　これが、魔族に喰われるということ…
　魂が輪廻から外れるということなのだと、理解させられた。

　膝を着く。
　胃から逆流してきたものを堪えきれずに吐き出した。



「うぇっ…う…っ、げほ…っ…えほっ…！」



　饐えた臭いが鼻に障る。
　胃の中の物を全て吐き尽くして、胃液すら出なくなっても、ちっとも気分がよくならない。

　殺した。

　自分の中で、虚ろな自分が呟く。

　殺した。

　ガチガチと歯が打ち合わさって、震えが止まらない。

　殺した
　殺してしまった
　世界から、跡形も無く消し去った

　俺が、この手で―!!!!



「っ…ひぐ…ぁ…ああああ!!うああああああああああああああ!!!! 」



　森の中に、青年の慟哭が響き渡る。
　雨はまだ、降り続いていた。









　彼はもう、逃れられない――…