薄雲に覆われた暗灰の夜。徐々に賑わいが薄れていく頃。
―――聳える建物のひとつ、その屋根上から。ひょこっと僅かに顔を覗かせて街並みを望む。
巡回兵の姿が格段に減ったような気もする。
単に城内の警戒を強めたのか、それとも兵が殺がれたか。先日よりは多少動きやすくなったものの、ひょんな事で捕縛されるのは流石に困る。
一頻り、周囲へ紫を向けた後、目深に被ったフード頭を引っ込める。緩やかな傾斜に寝そべるようにして、口許を掌で覆えば、

「ふぁ……」

緊張感の欠片もない欠伸。
そういえば、最近は纏まった睡眠とっていなかった。
先日地下牢であれだけ騒いだ後だ。《王》にたてついた代償か、私自身の中の《私》が――リリスが怯えている。
安息をもたらそうと努めて一度離れていたが、それももう。

「………」

ぺち、ぺち。自らの頬を叩いて小さな喝入れる。睡眠不足も体調不良に分類されるのか、先刻から妙に頭頂部と腰周りがむずむずする。
――さて、いつまでもここにいた所で仕様がない。緩慢に双眸を瞬かせて、寝そべっていた状態を起こす。表の街並みから隔たれ、閑散とした裏の小路へと。屋根の縁に足先を添えて、僅かに軋む音と共に重心を前へ。跳ねるように膝を畳んで真下の地面へと。降り立った、　ら　―――…

べ　　　　　　　しゃ
　　ば　　　　　　　　　　った　　　。

「………」
「………」

着地に失敗して前面を強打する事態になりましたが、それは置いといて。
なんということでしょう。現国王側の兵士と鉢合わせになってしまいました。

「………こんばんは？」
「貴様ッ！」

――夜の挨拶ぐらい返してくれてもいいじゃないですか。
捕まえようと頭より先に身体が動いたのか、兵は装甲越しの手が女へと伸ばされた。
後方に跳んでその五指を避けようとしたが、己の反応が出遅れた事を靴裏が物語った。
じゃりり、と礫が擦れる音と共に腕を掴まれ、捻り上げるようながら背中に固定される。

「―――い、た……っ！」

肩の関節が軋む痛みに表情が歪む。先日といい今日といい、良く訓練されている。対して女は睡眠不足と近接戦闘の心得もないという。本当笑えない。
腕を拘束されたまま、空いていた片手でフードの先端を引っ掴まれて首が閉まる。直後に武骨な鉄靴で背を蹴られ、硬い地面へと再度抱き合う。今度は額も打ち付けた。
受け身も取れない体勢で強かに胸を打てば、押し出すような呼気が喉を震わせた。

「乱暴です、ね……」

肩越しに、押さえ込む兵を見遣れば、そんな戯言。
刹那訪れた静寂を、しかしそれは打ち破られる。硬質な金属と石畳の地面が殴打する鈍い音。
「ばぁ……！」なんて古典的な驚かし方の声を発しながら、自分の体に憑いていたエッセが彼の前に現れる。
驚いて手を放してひっくり返り、天頂部を強かに打ちつけた。
ごわんっ！　と銅鑼を短く打ったような、鈍くも存外に大きな打音が小路に木霊した。
頑丈なヘルムと言えど、内部を反響する大音量には三半規管もびっくりしてしまうだろう。
コミカルに頭を右に左に回した後に、抜ける唸り声を微かに漏らしながら、兵がノックダウン。

「……あははっ」

楽しそうに耳につく笑い声。ごろんと体を起こしながら彼と、顔の見えない兵に視線をやる。

「大丈夫？」
「一応……」
「そう？　なら今度は気を付けてね」

そう笑うと立ち上がった偽に抱き着き、再び同化し、憑依する。
しばらく起きることはなかろう。起きた後が心配ではあるが、殺生はいけない。

「……？」

再度憑依されたとき、何か変化が起こったような、気がする。
性質が、何か変わった気がする。
――気のせいだろうか。

「……急がないと」

そうして、フードを目深に被り直しては紫を裾から覗かせるのみに。
夜お会いした兵への別れの言葉は紡がず口許のみ笑めば、地下牢への道に続く路地の角へと裾を翻していく。

差し伸べられた手をモクはじっと見つめる。
そしてある事を思い出して、モクも片手を出し、握手をした。

握手をし、首を傾げながら偽の方を見つめる。
どうやらこれが正しい方法なのか、正しい行いなのか分かっていないようだ。

　タックルは流石にフォローできない。紛うことなき無理ゲーである。

　悪い人じゃないのよ、とまあ、重ねては言うのだが。

　と、地下牢に一緒に行ったいつかのことを思い出す。

　そう言う声音は、どこか誇らしげというか、自慢するようなものというか。

　可愛らしいですよ、との言葉には、どこか居心地悪そうな返事を返した。