あまりの異質に誰もが目を開いたまま動かない。動けない。
あまりの醜悪さに誰もが息を呑み声を上げない。上げられない。

ただその異常に満ちた空間で、まるで何かの劇のように少女と腹部から異様に長い白い手を生やした熊だけが動く。

「たのしいおいしいご飯の時間だよー」


さあ、たーんと召し上がれ。


熊はその場から動かない。音もなく、腕だけが伸びていく。昆虫の足のように蠢く五指は確実に、恐怖で硬直している母親を目指している。
それは求めるように、いっそ縋るかのようにも見えた。どうしようもなく、さまよい続け、何かを掴むためにわさわさと指は動き続ける。

遅々としながらも確実に腕は母親の首を目指している。恐怖で血の気を失った白い喉元へ、病的な白さの腕が伸ばされる。

一瞬、腕の動きが止まった。

そして、餌に喰らい付くかのように高速で母親の首を掴み上げる。

「――――ぐがッ！」

つぶれた声が口から漏れる。
ぎちぎちと音が聞こえてきそうなほどの腕力で締め上げられ、母親の体が地から少し浮いた。

その様子を子供はにまにまと笑って見ている。
母の危機など微塵も感じていない。
まるで、足をもがれた虫がどうするかを観察するかのような視線を向ける。

誰も動かない。
誰も声を上げない。

不動と静寂に支配され、死んだ世界で悪趣味な演目を見せられている観客たち。


じゃら、っという音が世界に響く。


猛スピードで伸びた銀の閃光は白い腕の手首を強打した。
子供が驚愕の顔を浮かべる。
白い腕は激痛に耐えかねたのか大きく跳ね、母親を手放す。
開放された母親は地面へと倒れこみ、空気を求めるかのように喘いだ。


「何してるの、このみッ！」


叱責が耳を打つ。
その声に導かれ視線を向けるとまるで生き物のように鎖を操るアーネが額に汗をびっしりかきながら私を睨んでいた。

その言葉がトリガーだったかのように体が、世界が息を吹き返す。

上がる周囲の悲鳴。
恐怖に駆られ逃げ出す人たち。

そんな様子を気にすることもなく、子供はこちらへ暗い視線を向けてくる。

「……なにするの」

低い、あまりに低いそれに子供から発せられた声だとは一瞬結びつかなかった。
だが、彼女は激しい憤りをこちらへ向けてくる。

「何で邪魔するの。せっかく、せっかくなのに。たのしいのにおかしいのにゆかいなのに、なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおッ！」

響き渡る絶叫に空気が震える。

「やっぱりだ、やっぱりだめだ。こわそう、ころそう、つぶそう。魔女の手先はばらばらにしなきゃだめだ！不吉なんだ、生かしておいて良いことはない！だから私は言ったのに！散々言ったのに！あの馬鹿が聞きやしないからッ！」

「――――――ッ！」

向けられた激しい殺意に、体が動く。
そうだ、今はやれることをやる。強い意志を持って。
二つの敵へ駆け出す。その少し後ろで何かが追いかけるように走ってくる。
じゃらりと音が聞こえた。アーネだろう。

「ころせぇえええええええええええええッ！悪しき手先に神の鉄槌をぉおおおおおおおおおおおッ！」

少女が叫ぶと、熊が不安定に揺れながら、それでもしっかりと地を蹴り駆け出す。
少女はともかく、熊のほうは手加減はいらない。直感でそう判断し、まっすぐ熊へ向かう。


ォオオオオオオオオオオオオオンッ！


腹部の虚空から風の――いや、何かの叫び声が上がる。


白い腕が顔をめがけて伸ばされる。
掴まれれば最後、絶対に捉えさせない。

頭の中に術式を組み立てる。慣れた手順であっという間に構築を終え、

「来たれッ！」

声を合図に白銀の鎌を作り上げる。
そして、ためらいなく美しく光る刃でこちらを捕獲しようとしてくる腕を切り飛ばした。


ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ！


くるくると回りながら腕は地面へと叩きつけられる。
腕を失った熊は半ばから喪失した腕を振り回しながら大きく揺れる。

ごぽり、と湿った音を立て白い腕が三本、腹部から突き出す。
右腕が二本、左腕が一本。切り飛ばした腕は左腕だったから、これで左右の腕が二組ずつということになる。

三本の腕は怒りを表すかのように蠢く。
伸ばされた一本を掻い潜り、熊の懐に入り込み、くるりと体を廻しその刃を熊の胴へ叩き込む。

繊維を裂くだけの感触が手に伝わり、思った以上にあっさりと熊は二つになった。

悲鳴を上げることもなく、熊は地面に倒れ、三本の腕は痙攣するだけで動き出す様子もない。

「ふざ、ふざけ……ッ！ああああああああああああああッ！」

その光景を呆然と見ていた少女は今まで以上の声量で悲鳴にも似た声を上げ、その手に持つナイフを強く握った。

「影縛り」

鎌を振るうと、水晶のような針が数本、彼女の影へと突き刺さる。

「んなッ！」

こちらへ動き出そうとしていた足が強制的に止まり、つんのめるように体を大きく揺らした。

「縛りましたから動けませんよ」

「てめぇ、このやろおおおおおおおおおおおおおおおッ！」

「あなたには聞きたいことがありますから。どうしてこんな事をしたのか」

そして――、

「あなたは彼女を――魔女とそれを取り巻く何かを知っていますね？」