閉じた視界に、雨音が聞こえてくる。
　瞼を下ろすだけでやってくる暗闇は、カサネにとって何より親しみのあるものだ。
　けれど、今は。
　かつてのように周囲と自分を切り離すためではなく、より周りの状況を知るために目を閉ざす。
　雨音。森に水が満ちていく音。雫が滴り、流れる音。
　水気を帯びた土のにおい。かすかな風に乗って運ばれてくる、生き物のにおい。

　微かに、異質な音が混じる。
　僅かに、不快な臭いを感じる。

　首の後ろに刻まれた傷痕がチリチリと引きつるような感覚。
　誰かが、何かが、自分に対して害意を持っている証。

　今すぐどうこうされるほど近くはない。
　だが、存在を見過ごせるほど遠くでもない。
　暗闇の向こうで蠢くものに、また本能がざわつく。

　アレを許してはならない。
　アレを放置してはならない。
　早く、早く―…存在が、魂が、喰われてしまう前に…！

　目を開ける。
　雨音が満ちた森は、一見何も変わらない様に見える。
　でも、確実にソレは存在している。



「……カサネ？どうしたの？」



　立ち上がった契約主に、花魄のエンブリオが首を傾げた。
　盲目の彼女は髪を感覚器官として周囲を探るが、あの気配を感じ取れてはいないらしい。



「ん。ちょっと…気になるものがあったから、見てこようと思って」

「まだ雨が降っているのに？濡れてしまうわ…」

「うん、でも……知っておかないと、いけないから。朽葉は皆と荷物見ててくれ」

「一人で行くの？駄目よ、危ないわ」

「大丈夫、クレノと行くよ。確かめたいこともあるし…行こう、クレノ」

――御意



　影から這い出た獣を伴って、雨宿りをしていた木陰から離れる。
　雨の森へと踏み込んで行く主の背中を、残されたエンブリオ達はじっと見送った。



「……貴方達、一緒に行かなくて良かったの？」



　主の足音が聞こえなくなった頃、朽葉は傍らに伏せる双頭の獣に問いかけた。
　彼女は既に、この獣が主をどれだけ大事にしているかを知っている。



「んー…一緒に行きたいのはヤマヤマなんだけどねェ」

「主殿が今から知るであろうことは、主殿の一族の本来の役目だろうからな…」

「俺たちは、主殿ご先祖に長く仕えたけれど、結局戦で使われる武器の一つに過ぎなかったからさァ…」

「今回ばかりは、役には立てぬのさ」



　ふ、とどちらともなく零した吐息は切なく、地に伏せてなお力が抜けない体は飛び出しそうになる自分を抑えているようだった。
　傍にいたい。
　力になりたい。
　心はそう叫んでいるのに、獣は地に伏せたまま動こうとはしない。



「……貴方達がそうすることは、あの子のためになること？」

「…さー？ドウかなァ…」

「もしかしたら、駆けつけて止めた方がいいのやもしれぬ」

「じゃあ…」

「でもね。主殿は“決めた”んだよ」

「それが、無知ゆえの浅はかな選択であったとしても、彼は“そうあること”を決めてしまった」

「ああ、嫌だねえ…やっぱりあの女神の掌みたいでサ…」

「だが、それが分かっていてなお、我等もまた、待つことを選んだのさ」

「……どうしてか、聞いても？」



　暖かく少し硬い毛皮を撫でる盲目の樹妖に、獣の首はそれぞれ吐息のような笑みを零す。
　それは自嘲のようでもあり、堪えきれぬ愉悦のようでもあった。
　自分側の腹の傍に座っていた朽葉をルベドが鼻先で推して足の間に移動させると、獣達は樹妖の耳元にそっと唇を寄せる。



「俺たちは、どれほど従順に振舞おうとも、所詮はケダモノでしかないんだよ」

「ゆえに、望むのだ。主が戦う理由を持つことを。そうすれば…」

「俺たちの牙は、必要とされる」

「主と共に、駆けることができる…」



　かつてのように、と獣は笑った。
　それは獣にとっての本能的な欲求を満たすと同時に、最も幸せだった頃の記憶に基づく決断。
　共に戦い、その牙を剣とすることこそが望みだと嗤う獣に、樹妖は呆れたような溜息を一つ。



「……厄介な獣に好かれたものね」



　瞼で閉ざしたままの視線を主の進んだ先へと向けて、今一度溜息を吐く。



「でもそれは、あの子が無事に帰ってこれたら、でしょうに…」

「案ずることはない」

「そーそー…何せ、主殿に今付いているヤツは優秀だからねェ…」

「傷付けさせはしないだろう…特に、彼のモノたちには」

「大事な大事な、“器”だからねェ…」








　口唇を捲り上げ、牙を見せて悪く笑う獣達に、樹妖はやれやれと首を振った。


　

（――約束の日。早朝、待ち合わせ場所。
目的の場所に程近い、大木の下。色とりどりの屋根の並びを目にしながら、
忍は色付きだした木陰にひっそりと佇んでいた）

＊

（…やがて、約束の時刻の少し前。こちらに向かいながら
きょろきょろと辺りを見回す青マフラーの青年をみつけ、声を掛ける）

（名を呼ばれた青年が振り向けば、彼もまた忍の姿をみつけるだろう。
ただしその出で立ちは、普段の忍装束ではなくシンプルな白シャツに黒いズボン。
鉢金は外され、左の目には眼帯…と、些か見慣れぬものであったが）