併走する馬上から二人の激励がかかるも、絨毯を蹴る脚の回転数は上がらない。
踏んだ感覚だけで理解出来る高級な絨毯を楽しむ暇もなく、がむしゃらに脚を出す。

王城内、二階層廊下。
城内への侵入経路が確保されてから数日、玉座へと続くであろうルートの一つ。

三つの影とそれを追う多数の影が、道を形成する赤を踏みしめ駆け抜ける。

あの襲撃からから数日、<庭園>での暮らしはようやく平穏を取り戻しつつあった。
城壁内の集落とはいえ魔物が存在する世界だ、規模は違えどこういった状況、そして対応には慣れているのだろう。

踏み荒らされた花畑には種を蒔き、崩れた建物は解体し建て直して。
そうやって変化や脅威を受け入れ、<庭園>は今日まで存続している。

当然ながらそれはレンツにも言えることだった。彼の生活もまた、影響を受け変化が起きた。
具体的に言うならば、ナルがデレた。例を挙げると、

だったり、

と、こんな感じである。
ちなみに以前は、

だったり、

という感じだった。

もっともそれに対してどちらが良かったという言及は避けておくとしても（後者は後者で需要があるはずだ）、
彼女の、ナルの笑顔が増えたことは、単純に喜ばしいことだろう。やはり女の子は笑っている顔が一番だ。


そうやって笑えるようになったのは、
きっと心の拠り所――探していたものを見付けたからなのだろう。





「――俺がハルトムートだ」

もつれた脚に意識を戻し、崩れそうになる身体を立て直す。
数分も走っていない脚は既に疲労を訴え出していた。

――薄暗い書庫

　　　　　　　　　　　　　　――魔法陣

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「たとえ殺す力でも――」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　――幼いナルの姿




散らばる鏡片に映る一瞬の世界のように、断片的で連続性のない、それでもはっきりと浮かぶ（/思い出す）光景。――たとえば、色のないもの。たとえば、音のないもの。
それらの意味のほとんどは何を指しているのかも、何を示しているのかも解らないものが多い。しかしその“解らない”ということこそ、一つの答えを導く。

他の誰でもない、「レンツ」となる以前の記憶なのだと。



だっだっだっだっだっだっだっ。

最初に示していたのは、セルフォリーフの記憶だった。

ハルトムートが救った世界。緑が大地を覆う、生命の溢れる青い分割世界。
変異によって人語を繰る果実。巨大化した鼠。洋館に巣食う“起き上がり”。農村を襲った原生生物――ナルに出会ったのはその時だった――。薬岩の回収。そして、もう一つの分割世界。
そこで彼は（/自分は）各地で発生した「変異」に立ち向かい、尽力した。

また示しているのは“光景”だけではない。記憶の中には、自身を構成する記録――真名、出生、年齢、そして二刀流を得手としてることも――も書き込まれていた。


記憶と記録。その二つが、自身がハルトムートであることを示す。――押し付け雑ぜられ、今の自分を覆い包む。
そう認識している今はまだ、自分がレンツであることを自覚出来る。




ずきん。

がっ、ごんっ！



地を踏む感覚が痛覚に覆われた途端、視野が、天地がひっくり返る。
頭を、背中を、腰を、足を、腕を、強く打ちつけて――そこで自分が転んだことに気付き――ようやく勢いが止まった。
転がる岩が壁にぶつかり、粉々に砕けるように。

その叱責も数瞬遅れで言葉に変換される。
磁石を近付けられた羅針盤のように、打ちつけた衝撃によって、また激痛によって全ての感覚が混乱している。手も足も眼も耳も、偽物を押し付けられた、そんな感覚。
しかしのた打ち回る気力は殺がれていない程度というところが、降りかかった不運に悪意すら覚える。
否、この痛みに関しては必然かもしれない。

霞む視界でぎりぎり捉えられた先には、群れを為す魔物が迫っていた。

愛馬を回頭させるシュシュリ。後ろに載せた露のことも構わず加速させると、戟を身に寄せ突撃の姿勢を取る。
しかしそれも数瞬遅い。そのまま騎行を行えば、当たるのは丁度レンツのいる位置となる。たとえ愛馬の健脚が間に合うにせよ、結果が最悪でなくなるだけだ――。

　　　きっかけ
――記憶の呼び水は、あの力だった。


悲鳴を上げる四肢に力を籠め半身を起こし、視線を群れに向ける。
先には、怒号と悲鳴を突撃歌代わりに、当たり構わず蹂躙し接近する大小の魔物。――しかし瞳は“それ以外”も捉える。

万物に溢れる物質と生命の狭間に立つモノ。エンブリオが支えるこの世界でも平等にありふれ、しかし資質の持たぬ者は無縁で生涯を終えることもある、もっとも近い彼岸の源。在り来たりな奇跡。魔力。
赤を剥がし、塗り替えるように変貌した瞳の碧が、それを“認識”させる。

　　　ハルトムート
――双剣術とは違う、未だ由来の知らない碧き力。その力もまた、レンツに為った時から備わっていた。
隠していた訳ではない。使う機会が、必要が、無かった。
そう言い訳してきたのは、こうなると――英雄の記憶が、甦ると――知っていたからかもしれない。


獲物を定めた瞳に追従するよう、次いで向けられる掌。


ふぉん――


現われたのは黒い球。闇という、あやふやさすら残さないほどの黒。
それが幾層にも重なり連結された三次元魔法陣であると気付ける者は、ただ一人を除いてこの場にはいない。
察知出来るのは、圧倒的な暴力。そこに踏み込む魔物。

――だとしたら、この英雄の記憶は、

――あらかじめ用意されていたものでは、ないのだろうか？



ぐしゃり。


閉じた掌――その先で、飲み込んだ群れごと潰れる黒球。
血も肉片も飛び散らせることもなく。飲み込んだ者をそこに在った証ごと“持っていった”。

残ったものは皆無。

否。一つだけ在った。
握り締めた掌には、心の臓を潰したような感覚が残っていた。