かつての彼女が知る姿…右半身のない獣の姿でルベドは森の奥へと向かう。
　半身は主の下に留まった。
　別たれた姿は自分たちには未だ苦い記憶が大半であるにもかかわらず、それはお前の役目だろうからと笑って送り出してくれたことに感謝せざるを得ない。

　不意に、耳に届いた歌声に、耳がピクリと反応した。
　人には聞こえぬ、木々の唄。
　樹妖が謳う、森への賛歌。
　言霊を帯びた旋律は蛍火となり、ふわりふわりと木々の間をすり抜けていく。

　歩を進めた先、少し開けたその場所で、彼女はルベドを待っていた。



「まさか、この地で貴方に会うとは思わなかったわ…」



　夜闇に溶け込みそうな射千玉の髪をかき上げ、女が苦笑する。
　穏やかな声色を持つ彼女を、ルベドは知っていた。
　だが、それは白い肌をした細身の体に黒衣を纏い、朽葉色の眼を瞼に隠した彼女ではない。
　うら若き乙女であり、幼気な少女であった頃の彼女だ。

　世界が変われば時間は異なる。
　例え自分には１ヶ月程の時しか経っていなくても、彼女は長い長い時間を過ごしたのだろう。
　たった一人で。



「おじょ「違うでしょう？」



　以前のように呼ぼうとすれば、鼻先にひたと人差し指が当てられ、阻まれる。
　仄かな色を乗せた唇は綺麗な弧を描いていた。



「あの子がくれた名で呼んではくれないの？」



　あの子、というのは言わずもがな、自分たちが仕える青年のことだ。
　彼は彼女に乞われるまま、他のエンブリオ同様に名前をくれてやった。
　――朽葉（くちば）…それが彼女に与えられたエンブリオとしての名だ。
　由来がその目の色であることは想像に容易く、彼女自身も『いい名ね』などと気に入った様子で言ったものだから、す

っかりそれで話が付いてしまったのだが…



「…そのことで、一つ問いたい。何故、主殿に嘘をついた？」



　主に名を問われた時、彼女は笑って言ったのだ。
　『永らく呼ばれていないから、名など忘れてしまった』と…
　そんなはずはない。
　そんなことは有得ない。
　彼女がどれほど自身の名を大事にしていたか、一月前までは共に過ごしていたルベドには忘れようもない。

　その名は、彼女とあの子供の存在を示すものだった。
　彼女が生まれた理由だった。
　そんな大事なものを、たかが数百年で忘れ去れるはずがないのだ。



「本当のことだと言ったところで、貴方は信じてくれないのでしょうね…」

「信じられるものか……短い期間であったとはいえ、傍にいてそれが分からぬほど鈍くはない。それに…」

「それに？」

「お前があのような顔で笑う時は、大抵大丈夫ではない時だからな」



　獣の体を黒い炎が包む。
　豊かな毛皮は赤茶の髪に、浅黒い皮膚にと変化して、視点の高さが逆転する。
　見上げる側から、見下ろす側へ…
　つむじが見える角度が変わらないということは、別れた時から背は伸びなかったのだろう…
　そんな風に思いながら、右手を伸ばす。



「……何があった？お前と、“もう一人”のお前に」



　柔らかな頬に触れ、親指の腹で目元を撫でる。
　微かに睫毛が震えて、閉ざされていた瞼が開いた。
　朽葉色……文字通り、枯れて朽ちた葉の色。

　かつて、彼女の眼は主とよく似た紫色だった。
　暁とも夜とも例えられたその瞳は、半妖であったがゆえに妖気の影響が容易く現れ、感情によって色を変えた。
　嬉しければ、葵の花を思わせる珊瑚色に。
　悲しければ、今のような枯れ草色に。
　憤れば、鮮やかな深緑色に。
　くるくると表情を変え、文字通り目の色すらも変えて、彼女とあの子供は日々を過ごしていたはずなのに。



　右手に、細い指がそっと触れてくる。
　確かめるように這う指は、手首から手の甲を伝って頬に触れる指を一本一本確かめていく。
　やがて彼女は小さく『右手ね』と笑った。

　ルベドが彼女と出会い、そして別れるまでの間、この右手は忌々しい封印に拘束されていて彼女に触れたことはない。
　目も、口もだ。
　だから彼女の髪がさわさわとざわめき、頬に、目元に、唇に触れてくるのを拒まなかった。
　盲た彼女にとって、髪は最早手よりも優れた感覚器官であったから。



「何もなかった……いいえ、何もなくなった、と言うべきかしらね」



　しゅるりと髪が引いていく代わりのように、彼女はポツリと零した。
　足りない言葉の続きを促すためにとルベドが今一度目元を撫でれば、焦点の合わない目が見上げてくる。
　頬に添えた右手を白い指に求められるまま少し下へと伝わせると、首を走る傷痕に行き着いた。
　淡く、微かに引き攣れた古い傷痕だが…かつてそこを彩っていた緑の文様は全て消え失せていた。



「少し眠ると、わたしは言ったの。でも、それきり……起きなくなった」



　彼女と名前と体を共有していた、幼い少女の姿の“もう一人”は、樹妖であった養い親の最後の言霊によって文字通り

“繋がれていた”人間の魂。
　養い親を殺されて、喰われて、奪われた。
　養い親に助けられて、受け継いで、残された。
　悲しくて憎くて恨めしくて、けれど養い親の遺言によってそれらの感情を復讐へ向けることを許されなかった。

　それゆえに、少女は自分の魂を、真名を歪めてもう一人の自分を生み出したのだ。
　同じ音に異なる意味を乗せ、憎み、恨み、奪い返すために。

　そうやって彼女は生まれ、全てを請け負った。
　喰らい、奪い、力と成して、少女が果たせぬ復讐を成すために。



「わたしは私、私はわたし――わたしのことなら、誰よりも知っているはずだったのに…」



　人と樹妖の狭間の存在。
　けれど別たれた、人と妖の魂。
　体と名前を共有しても、人と妖の時間は同じではなかった。



「わたしを留めることは出来なかった。どれ程私が妖力を増しても、わたしの時間は人のままだった」



　自らを生み出した“もう一人”は彼女の中で静かに二度と目覚めぬ眠りについて、そして、彼女は残された。



「そのことに気付いたのは、首の文様が消えてからよ」

「間抜けでしょう？全部失って、それからようやく気付くだなんて…」



　かつて彼女の首には、鮮やかな緑の文様が刻まれていた。
　一文字に割かれた首の傷を繋ぎとめるように、ぐるりと首を一周していた、葵の文様。
　人であった養い子に、養い親が最後に残した術式……形見だった。



「わたしがいなくなってしまった以上、私の名には意味がないの…」

「わたしがいないのなら、誰に呼ばれても意味がないのよ……」



　声が震え、肌を伝って次から次へと雫が零れる。
　一体どれ程長い間、吐き出せずにいたのか。
　傍にいたときから既に、抱え込む質の少女ではあったが、この様子だと“もう一人”を失って以来、誰とも添うことな

く過ごしてきたのだろう。
　相も変わらず、不器用な娘だ。

　首に触れていた手を後頭部へと滑らせ、左手を腰に回して引き寄せる。
　華奢な体はほんの僅かな抵抗を見せたものの、結局は大人しくルベドの腕に納まった。
　足首に届きそうな程伸びた髪を撫で梳いて、誰かの仕草を真似てつむじに唇を落とす。



「……裂羽」



　腕の中で女の体が跳ね、息を呑む音がした。
　彼女の名を呼ぶのは、これが初めてだ。
　かつての彼女は半妖であったから、ルベドが名を呼べば、彼女を喰らうという意思表示になってしまうためにずっと呼

んだことはなかった。
　けれど、今の彼女は違う。
　人の魂に置き去りにされ、世界を見ることを拒むほど悲しみに暮れた哀れな樹妖だ。

　だから、かつて彼女をそう呼んでいた者と同じ音で、その名を唇に乗せる。
　髪を、背を撫でて、出来る限り柔らかに、彼女だけの名を呼んだ。



「裂羽…」

「やめて」

「裂羽」

「やめて、やめてよ…」

「裂羽」

「ルベド、おねがい…」



　涙に濡れた声が拒絶の言葉を吐いて、腕の中の体が暴れそうになるのをきつく抱きしめて封じる。
　意味がないというのなら、聞き流せばいいものを……こうして暴れるから全てが嘘だとばれるのだと笑って。



「裂羽……名に意味がないなどと、言うな」

「この名は、あの子供がお前に付けた名だ」

「例え、最初は復讐のためであったのだとしても、この名でお前を呼んだ者は、確かにいただろう？」



　夜色の髪の男が脳裏に浮かぶ。
　時に笑って、時に怒りながら、彼女を呼んだ人間。
　彼女と“もう一人”が守りたいと願って、失うことを恐れるあまりに手を離した者。

　きっと同じ人物が浮かんだのだろう……腕の中の抵抗はやんで、ぎゅっと服が握り込まれる感触。
　次いで聞こえてきた嗚咽に、ようやくかと息を吐く。
　よく泣くくせに、吐き出させるのは一苦労だ。

　力が抜けていく体を抱え上げて、適当な木の根下に腰を下ろす。
　胡座を組んだ足の間に納まった裂羽の背を撫でて、気が済むまで泣かせてやった。

　やがて嗚咽は小さくなり、泣いて熱を帯びた体がそろりと離れる。
　目元を擦ろうとする手を捉えて、目元に残る涙を舐め取れば、樹妖の涙は舌に甘く、仄かに苦かった。



「……ルベドは」

「何だ？」

「意外と気障よね」

「…………そうか？」

「ええ」



　小さく笑って、こてりと華奢な体が預けられる。
　見た目が多少成長したところで、仕草は然程変わらない。
　ルベドと別れた頃……確か、二十歳を幾つか過ぎたくらいの彼女のままだ。
　齢500を超える年月を生きているルベドからすれば、まだ子供である。

　ふと、そういえば、昔似た様なことを言っていた男がいたなと思い出す。
　ルベドが彼女とであった世界、不思議な書物の中の世界で、彼女が縁を結んだ者の一人。
　子ども扱いされることに憮然とする彼女に、今だけのことだと可笑しげに笑っていた。
　彼もまた、視力を失っていたのだったか…理由は全く違うだろうが、思えば数奇な縁である。

　ふ、と零れた笑みに、胸元で裂羽が顔を上げる。
　目は閉ざされていたが、どうかしたかと問う気配に、たいしたことじゃないと首を振って。



「少し前のことを不意に思い出してな。お前にすれば、随分昔だろうが…」

「昔の？」

「ああ。あの本の世界でのことだ。視力をなくした男がいただろう……覚えているか？」

「…………？」



　微かに首を傾げて眉を寄せる。
　流石に数百年も前の話では思い出すのは困難だろうかと、自分も記憶を探った。



「確か、お前が無花果と木苺をくれてやったのが最後だったか…」

「……ああ、思い出した」



　ふわりと浮かんだ柔らかな笑みに、その記憶が彼女の中で優しいものであることを知る。
　彼は彼女の名を本当の意味では知らなかったが、それでも親しく名を呼んだものの一人だった。



「思えば、奇妙な縁だとな…」

「そうね……彼の連れだったエルフを覚えている？」



　逆に問われ、すぐさま一人のエルフが脳裏に浮かんだ。
　それほど、彼女と彼のやり取りは日常であり、印象に残っていたのだろう。



「お前と散々やりあっていた、あのエルフか？」

「そう。彼もね、見えなくなったの」


　裂羽の言葉に、目を瞬かせる。
　かつて相棒であった二人がそれぞれ視力を失っていたとは。
　いや、それも驚いたが…



「……会ったのか？」

「ここに来る少し前に、偶然ね」

「そうか」

「幾つか話をしたけれど、すっかり大人しくなってしまっていてね…」

「話？……お前とか？」

「ええ。吃驚するでしょう？」


　相棒であった男に病気と言わしめるほど異性嫌いであったというのに。
　長く生きていれば、変わることもあるのだなと息を吐く。

　そんなルベドの様子にくすくすと笑みを零し、裂羽は離れていた間の出来事をぽつりぽつりと話しはじめた。
　復讐を終わらせたこと。
　本が開かなくなってしまったこと。
　結局、あの家に戻れてはいないこと。
　今もまだ、あの組紐と鈴を大事に持っていること…
　切なく憂いを帯びた声ではあったが、泣くより前のような張り詰めた気配はない。

　今はまだ、それでいいかと内心で呟いて、ルベドは樹妖の言葉に耳を傾け、相槌を打つ。







　いつかのように、腕の中で彼女が眠ってしまうまで。
　

（既に馴染みとなった待ち合わせ場所。
いつもの様に姿を現した青年の声に、こくりと頷きで応え）

（綺麗に洗われ戻ってきた重箱を受け取る。
ふわりと漂ったのは、笹の香か――
そんな事をちらりと考えていると、更に何か差し出された）

（青年の説明を聞きながら、
受け取った香草の束にひとつひとつ鼻を近付ける）

(本人にその意識があるのかどうかは謎だが、結構嬉しそうである！
青年とそのエンブリオに礼を伝えると、おかん忍は重箱の包みに香草の束をしまった)

(徐に、ぽつりと呟く。暫し何事か思案した後、再び青年へ向き直り)

(ちなみにその次は魚、とおかん情報が付け加えられ)

（都合があわない、もしくは気乗りがしなければ気にせず断ってくれて構わない。
そうでなければ、どうだろうか――と、忍は青年に尋ねた）