ふと目を覚ませば、カサネは見慣れた暗く深い場所にいた。
　常と違っていたのは、いつもは見える星空のような煌きが随分遠いことだろうか。



（……いつもより、深い…？）



　ぼやける視界に目元を擦って、気付く。



（動かせる…？）



　手だけではなく、いつもは固定されたように動くことができずに一定方向へ視線を向けることしかできなかったのに。
　慌てて上体を起こして周囲を見回せば、すぐ傍らに獣がいることに気付いてぎょっとした。



「クレノ?!……じゃ、ない…？」



　黒く艶やかな毛並みの猫科の大型獣のようなしなやかな体も、見つめる血の色をした目もそっくりなのに、その獣は銀色の一本角と爪を持つクレノとは違い、両耳の後ろから捻れた角と爪を持っている。色は重厚な金色だ。
　カサネが目覚めたと見るや、腰を降ろしていた獣はすっくと立ち上がりくるりと踵を返した。



「あ…ちょ、待ってくれ！」



　慌てて呼び止めれば、獣はちらりとカサネを見やって足を止めたが、カサネが立ち上がるのを確認するとまた歩き始めた。
　後を追う。

　真っ暗な空間に星明りのような煌きが散る不思議な場所を、獣はゆったりとした足取りで歩いていく。
　揺れる二本の尾もまた、クレノとは違っている部分だ。
　周囲を見回して歩調が遅くなるカサネとの差が開くと時折足を止めて待っていて、それに気付いたカサネが慌てて距離を詰めるということを繰り返す。

　どれほど歩いたか。
　随分歩いたような気もするが、景色がほとんど変わらず、不思議と疲労も感じないために時間の感覚が分からない。
　ただ、より深い場所に来たような気がする。
　この場所は、闇が深い…何故かそう感じられて足を止めれば、振り返った獣がすうっと笑うように目を細めた。
　親が子を見るような、怖がる子供を微笑ましく見守るような…悪意のないそれにカサネが怪訝に思うよりも早く、唐突にその時はやってきた。



「……あんまり深く沈むな、つったんだけどなぁ…俺は」



　呆れたような、仕方ないなと諦めたようなその声を、カサネは既に知っている。
　獣に向けていた視線を上げれば、そこにはいつの間にやら男が立っていた。
　黒髪紅眼、顔の右側を眼帯で覆った、黒い片翼の有翼人…何処か自分と似た面差しの――いや、逆だ。彼がカサネに似ているのではなく、カサネが彼に似ているのだ。



「……アマネ…？」

「おう」



　思わず零れたその人の名に、あっけらかんと肯定の返事が寄越される。
　きっとそうだろうとは思っていたけれど、こうもあっさり頷かれるとどうしていいか分からなくなる。
　聞きたいことは、それこそ山のようにあったはずなのに。



「マガツお前…連れてくるのがちっと早ェよ…」



　ガラ悪くしゃがみ込み、男が獣の頬を手挟んでぐにぐにわしゃわしゃと揉むように撫で遊べば、獣は唸りながらもグルグルと喉を鳴らす。
　悪びれない獣の様子にしゃあねえなと溜息をつくと、紅い隻眼がカサネへと向けられた。



「どうやら、悠長にお前を待ってやれないらしい…悪いな」

「え…？」

「予想した以上に、連中の動きが早い。そろそろ手ェ打たないと、クレノだけじゃ狩り切れない」

「何だよ…それ…一体、何の話だ?!」

「俺とお前の一族が馬鹿みたいな昔からやってきたことの話さ」



　よっこら、と年寄りみたいな声を上げて立ち上がると、男がカサネとの距離を詰める。
　見た目はカサネとさほど歳が変わらないように思うのに、男の纏う気配は円熟した老人のようだ。



「本当は、俺が直接手ェ出せりゃよかったんだがな…この世界は、俺たちの世界とは繋がりが薄い」

「直系血族を呼び出すことはできず、時間を超えることもできなかった…」

「だからお前が必要だった」



　悪いな、ともう一度男は言った。
　伏せた目は愁いを帯びて、けれどその声には揺るぎない何かを垣間見せて。
　恐らくは男にとっても苦渋の決断だったのだろう。
　それでも、彼はカサネを巻き込むことを選んだ。
　そうしなければならなかったから。
　己の子孫の平穏よりも、それが男の成さねばならぬ事であったから。




「ここまで落ちて来ちまった以上、もうお前に逃れる術はない。だが、知る権利はある」



　すいと男が手を差し伸べた。
　大きく硬い、小さな傷がいくつも刻まれた掌が、カサネに向けて伸ばされる。



「選べ。何も知らないまま利用されるか、全てを知って受け入れるか……それとも、抗うか」



　唐突に突きつけられた二択に戸惑うカサネに、なおも男は畳み掛ける。
　見下ろす静かな紅い目は、惑い見上げる紫の目を逃がしてくれはしない。



「お前が決めろ……玄守 カサネ」



　

（謎生物状態は解除されたものの、未だ何事か呟いている青年に首を傾げる。
しかし本人がそう言う以上は…と、忍はそれ以上追求する事はしなかった。セーフ！）

＊

（手の中の札に落としていた視線を、再び青年へと向ける）

（出来る限り気を遣わせぬ様にと、淡々と話したつもりではあった。
が、この青年の気質ならばそうも行くまいな…とも、思っていた。
案の定肩を落とす様子に、気にするな、と声を掛ける）

（ぽつりと呟くと、また視線を札へ――札の中の黒犬へ落とす）

（――不甲斐無き話でござる、と忍は一度目を伏せると、札を懐へとしまった）

＊

（己の言葉に、大したことじゃない、とマフラーごしにもごもごする様子を見て）

（ふ、と吐息の漏れる音。
溜まった疲れがそうさせたのか、そうでないのかは分からない。

それはこの男には珍しい、どこか屈託の無さを感じさせる様なものだった。
自身はそうと気付かぬまま――
この世界に来て初めて見せる表情で、忍は笑った）