―――こくり。こくり



　真夜中の森、昏がりの湖の滸で独り、舟を漕ぐ。

　うとり、うとりと頭を揺らすたび、水に浸した細い足首が静かに震える。

　水は骨身に凍む様に冷たい筈だのに、頭を揺らす蒼銀はさもぬるま湯にでも浸かっているかの様に、実に安らかに微睡んでいた。

　うと、うと、こくり。かくり。水飲み鳥の玩具の様、何度も前屈んで水面に近付けば、くさっぱらに付いた手がかくかくと揺れて指先が水に浸る。

　見下ろす水面はまるで鏡の様で、眠り続けた姿が映し出された。











「―――ん、」

　ふと、夢うつつなネコミミ帽子は俯いていた頭を擡げ。葦のように、芒のように細い髪を掻く。蕩けた眸で辺りを見渡した。
　衣擦れさやかに草地を踏んで、水辺に訪れる白い影。
　それはこちらに来ていた。

「―――――っ」

　一つついた溜息は何処か疲れていて、色素の薄い髪は煌めいていて。
　その人は――男は――こちらを見下ろしていた。
　依然会った時よりも、ずっとずっと落ち着いている。
　酩酊している頭の所為か、それとも心が穏やかでいられるのは、あの人達のお蔭か。

「眠っているのか――」

　舟人のように揺らしていた頭は、もうそちらを見るのに意識を向けていた
　夜目が利く眼故に、その人物が何者かはすぐ分かる。頭の中が凍えそうになって、かちりと体が震える。
　白銀色の眼差しはなお冷ややかに、闇の中じっと眸を凝らして、彼女の胸元に視線を注ぐ。
　その場所に自然と手を這わして――何かに締め付けられるような痛みがした。

「其方から赴いてくれるだなんて……」
「――気になる事が出来た」

　男は――呪いを刻んだ人は――大神は笑う。
　この世界に落ちる前に、彼に呪いを刻まれた。総立ちになる肌が、夏場というのに寒さを与えてくる。

「最近　、変わった事　は　無い　か？　浮雲……《リリス》　愛しい　娘　　子」

　痛みはそれでも和らいでいる。彼女はどこか凍りついた顔をしながら耐えている。前よりもずっと。
　顔を上げて凝視して。――どこかひどく穏やかで。
　熱い青銅の夜に、月明かりに映えるましろの指先が彼女に触れた。突っぱねる事はせずそれを享受する。
　頬に触れ、口元に――指先が口内に入る。眠る前に溜まった唾液が指先を伝い、舌背に指先を這わす。
　口内の水鏡に重ね合わせた指先を、ほんの少しだけ震わせてみせられる。粘液は波紋を作る事なく沈んでいく。
　とぷりとぷりと指の腹に押され、舌が自然と引っ込む。　

「っ、　ぁ　……ぁ――」

　声は掠れ、息が断続的に吐き出されて冷たさに喘ぐ。舌を引きちぎられるのではないかという錯覚を覚える。このまま二つの指で舌を嬲られ、血を搾り取られて抜かれるのではないかと……そんな未来を見た。

「ぇ　ぁ　……っっ！！」
「御前は偽善者か、エゴイストか？　何をしたいのだ、慰められたいのか？」

　腕を引き寄せて、指を引き抜き、口付けられる距離まで迫った唇。
　威圧される得も言われぬ感覚。恐怖。幻影。フラッシュバックする光景全てを振り払って彼の人から離れる。口の端から体液が漏れて、草をひたひたと輝かせた。
　不規則に呼吸を荒げている彼女を置いて、男は構わず。眼を細めて見遣る。

「御前には……契約を破棄して貰わねばならない。この世界で交わした契約を、御前が得た縁も、そのすべてを」
「な　　ぜ　？」
「其れが――在る以上。此れ以上、御前が望む幸せも……私が望む事も叶わないだろうて。私としては、至極、困るのだ。
　……寄越すが良い。今代の《リリス》。先代の――父も同然のこの私の頼みだ」

　口許を拭う此方を余所に、月に輝く男は手を差し出す。

「御前は何を、望む。望みが在るから、抗うのだろう。何も遺せやしないお前が遺したがるものとは、どのようなものなのか？」
「その望みの対価に契約を破棄せよ、……と、云うのでしょうか？　それでは結局、私の望みは叶いません」

　ガラスが割れる音が耳に響く。頭を抑えて足元をふら付かせる。
　不思議と見開いた白銀の眸は、しかしすぐに収まって眼を閉じた。


　―――薄く笑った口許。


　次の瞬間には、その手に頚が掴まれていた。
　触れる指先は温かくもなく冷たくもない。ただし、苦しさだけは伝うよう、しっかりと締め付けて。

「…っ……ッ……怒りました、か……？　思い通りにならな　くて　縛ってもまだ抗うのに―――悔しいんです、か？」

　ギリリと絞まる力が強まって、器官が狭められ、嘲りを紡ぐどころか息すら苦しい。咄嗟に片手を伸ばして自身を縊る手に爪を立てる。

「貴方、は私には、　何も　遺せないと　　　っ　　仰いました、けどッ　私にだって――遺せるものは……！」

　どれだけ引っ掻いても、引っ掻いても解けない。宙に浮かぶ体。足をばたつかせても届かず、大神を蹴り上げようにも、びくともしない。
　樹冠を覆う木々を枯らす、葛の蔦がしたりと流れる。堕胎した胎児のようにぼとぼとと、はしたなく、醜く。
　彼女が放ちたる葛の蔦を、不浄の異形で在るかのように、あまりにも汚らしい下級妖魔のぶちまいた物のように、忌々しくも睨み付けた。

　ゾゥ　と、何ぞ蠢く気配。

「ひとつ、誤解をしていたようだ」

　月明りを受け煌く砂粒より生まれ出でるのは蛾の集合体。か弱き小さき虫とて百千万と集まれば、植物にとっては十分過ぎる脅威なもの。
　葛の汁を啜って生きる羽衣の蟲は我先にと蔦に向かい、葛の汁を、血を啜る。

「御前は矢張り強い子だ。素養はあるのにそれを認めない。――継ぐのは御前で良かった……だが時間が合わないのだ。だから――」

　破棄せよ、と。
　ギリ、ギリリと縊る手に一層の力を込める。片手だった其れは遂に両手に及び、爛爛と狂気に光る白き眸、見開きて覗き込むは苦しげな紫。
　瞬く間に枯れ行く葛の蔦と蟲の群れの中、視界は白く霞んでは瞬き、ちらちらと光すら走っているように見える。今は、夜の筈なのに。
　―――白い夜に、星は瞬いただろうか。

「私を、認めてくださらない、貴方なんて、『大嫌い』です」

　この手が邪魔だ。強まる手に大して紡ぐのは純粋な拒絶の言の葉。触れるな、と、強がりを込めて。
　けども強がり程度の、迷いの在る言の葉では縊る手を解くまでには至らない。

「ロクな呪いも紡げず、斯様な地で呼び寄せられる植物は雑草や葛程度」

　笑みに歪む白色はさも愉しそうに細められて、肩を揺すりながら掠れ聲は囁く。

「―――――御前は弱い」

　呪いの言の葉。

「この手に抗うのは、私に抗うているのではない、…御前は“死”から抗うているのだ。そうだろう？
　―――――生きたいなら。御前が生きられるようにしてやろうか」

　唯の問い掛けのようにも聞こえようが、れっきとした呪い。抗うには意志と非ず、抵抗するには意地を見せなければならない。
　この蛇の誘惑に、妖女は耳を傾けてはいけない、決していけない事。　どうせ嘘に決まってる。エデンを追われた女のように。嘘に決まってる、嘘に―――

















「……本当、に？」





　次に紡いだのは、言霊の続きではなく、単なる問い。





「本当に、生かして、くれる、の？」





　本当に、本当に。





「―――なら、」





　本当に―――――

　
今度はこちらがくすくすと笑って

　

モクはつーちゃんの言っている事が理解出来ない、と言った表情で目をぱちくりとさせている。

その後、偽の言った言葉に対して……

と、あまり理解できていない素振りを見せた。

なんでか知らないが…すけべ扱いされた。

さっきの自分もそんな感じだったのと思いつつ、見ている方はほほえましいと感じていた。

自分の育った環境の所為か気が早い。
幼くして既に夫が決められていたので恋愛期間というものが頭になかったりしているので仕方ないといえば仕方ないのであろう