兵舎。城内ではあるものの、広大なこの城の敷地からすれば本館からは遠い位置にある。そんな面倒な位置関係にあることに加えて、まさにそこは兵舎なのだ。未だに防衛する意志のある兵士が多数存在する今の環境では好き好んでこんな場所へとやって来る者はそうはいない。現にアイヴォリーたち二人の眼前には、この一帯を預かる隊長格の男がいるという、それなりに整備された大きな建物があった。
　ラケルトという眼帯の男は、この辺りの兵士たちを束ねている兵士長だ。さすがに城内ともなればその兵士たちの練度も平地や小川で遭遇したそれとは異なる。いうなれば正規兵という奴で、恐らくは支給されたであろう制服に身を包み、専門化された部隊に所属する。城の外縁にいたいわゆる警備兵ではなく、戦争をするためのれっきとした兵隊たちである、ということだ。
　その隊長ラケルトと取り巻きがいるという建物が見える位置の小さな部屋で、アイヴォリーとメイリーは簡易な夕食を済ませたところだった。高度に迷宮化されたこの城は、他の城がそうであるように幾重かの本物の城壁で隔たれた多数の建築物の集合体だ。住民は城壁であり迷路の壁の役割でもある直線的な建物に住居を構えている。それは家屋というよりも箱に近い。そういった建物を隙間なく並べることで一定の広さの敷地に巨大な迷路を作り上げることが出来るのだ。通常は建物の内側に設けられた通路が開かれているためそこに暮らす者たちにはそれほど不便は生じない。だが今のような有事の際には鉄柵で作られた頑丈な門がそういった通路を塞ぎ、侵入者を直線的に王宮へと向かわせないようにされるのだ。そしてそれは、普段からここで暮らしている者たちと侵入してきた攻撃者たちの間に、土地勘という名の大きな優劣を与える要因になるのだった。

「つっても、屋根があるのはありがてェな。」

　アイヴォリーたちが休息する場所に選んだのは、小さな酒場だっただろう建物の二階だった。普段ならばここで商売を営んでいる主がいて、一階のホールでは夜遅くまで住民や兵士たちが思い思いに過ごしていたのだろう。だが、一揆と呼ばれるこの反乱の最中にあってはさすがに店はやっておらず、主たちの姿も見えなかった。恐らくは城のさらに中枢、こういった場合に一般人が逃げ込むことになっている安全な所へ逃れたか、もしくは既に城から脱出してしまったか。何にしてもがらんとしてしまったその酒場は最近までの人の気配が感じられる状態だけにどこか薄気味悪い。
　この場所を選んだのは言うまでもなくアイヴォリーだった。住居や各種店舗が壁のように連なるこの一帯で目指す兵舎の場所へと迷う素振りも見せずに向かい、その周辺を少し調べただけでさっさと今晩の“宿”をここに決めてしまった。アイヴォリーにしてみれば、こういった城の城下町や外周部に当たる街並みは庭のようなものだ。それはまさに、かつて暗殺者であった時分の本領発揮、とでも言える物だろう。王城の規模と敷地面積から類推し、これまでの数々の王城と比較して当りをつける。彼にかかれば緊急時の壁であり袋小路を無数に作り出す通路の鉄扉も障害にはならない。その姿を見つからない程度に簡素なものならば鍵でも持っているかのように開錠し、時間がかかりそうならば迂回する。見回りの兵士たちも少なからずいるのだが、アイヴォリーの誘導によってそれらは遠目で確認出来る距離でしか遭遇しなかった。まるで、ここにかつて住んでいたかのようにして、長く共にあるはずのメイリーでさえも驚くほど自由に、アイヴォリーはこの兵舎一帯を進んでいた。
　言ってみれば、この迷路を構成する建物は全て住居である。その多くは住民が避難したために無人になっている訳で、逗留、というよりは潜伏するための部屋はいくらでもあった。その中でわざわざこの特徴のある建物をアイヴォリーが選んだのにも当然理由があった。通常の住居であれば住民でもある兵士たちが自分の家へと戻ってくる可能性もある。また一般の家として使われている建物に比べ、宿を兼ねているこの手の酒場は建物が大きいために複数の経路が存在する。それは無益な遭遇を回避する隠れ蓑になるとともに脱出経路をも兼ねていた。また、エールや葡萄酒も含めて水分はもちろん、食料にも困ることがなさそうだ、というのも利点だった。こうした店は大抵保存可能な食料をある程度在庫として持っている。それは一揆が始まってまだひと月かそこら、この周辺に探索者たちがやって来てからそこまでも日が経っていない現状では十分な備蓄があるであろうことを意味している。それほど飲食には困らない今回の探索行ではあるが、節約出来るものは節約しておくべきなのだ。
　また、建物が大きいということはそれだけ明かりが外に漏れにくいということでもある。窓から光が漏れるような状況では明かりはもちろん、煮炊きのための火を起こすことも出来ないのだ。実際、食事をするための火を使うために、アイヴォリーはわざわざ無関係な他の建物へと移動して調理を済ませてきたくらいだ。これがアイヴォリー一人であったならば、当然のように保存食をそのまま口にするか何事もなかったように食事自体を飛ばしてしまっただろう。だが、こんな状況でもアイヴォリーは律儀に、簡素ではあるが温かい食事を調理してメイリーの隠れる宿へと持って帰ってきた。暖かい食事がもたらす活力のことを考えてのことだ。
　そして、アイヴォリーがここを選んだ一番大きな利点が、今彼が行っているこれだった。

「四人……まァソレホド多くはねェな。出払ってヤガるのか？」

　暗闇に沈む部屋とは対照的に、窓の外には冴え冴えとした月光が降り注いでいる。彼が覗く窓は屋根からの陰になっていてそこに彼がいることを隠してくれる。それに対して、僅かに周囲よりも開けただけの小さな広場に面した兵舎は、夜になっても明かりが灯されていた。それは、その兵舎が未だに機能していることを彼に知らせてくれる。有事であっても不眠不休で警戒することは出来ない。兵舎には非番と当番の兵士たちが入れ替わる様子が見て取れた。
　メイリーは彼らが今日の休息場所に定めた、窓のない内向きの部屋で待っている。そこから数部屋離れたこの場所が、まさに彼がここを選んだ理由だった。北向きの、兵舎の面する広場を見下ろすことが出来る窓。この建物自体が広場に接している訳ではないが、その窓はちょうど幾重かの建物と建物の間隙から兵舎の出入り口が確認出来る場所だった。ここからならば、安全に敵の様子が偵察出来るのだ。正規兵たちが詰めている兵舎に何の情報もなく特攻するのはさすがに無謀過ぎる。他の探索者たちが持ち帰った情報はあるのだが、アイヴォリーは自分で確認する手間を選んだ。結果としては情報通りであったのだが、それはアイヴォリーを納得させこそすれ、落胆させるものでは決してなかった。

「…………？？」

　静かにアイヴォリーが窓から視線を外す。確かに聞こえた。それは、この建物と外をつなぐ扉が静かに開かれた音だった。かつて“地獄耳”とメイリーに揶揄されたこともある彼の聴力だが、それは当然こういったときのために訓練された賜物なのだ。常人であれば聞き逃しただろう小さな音をアイヴォリーは確実に捉え、それが下見を済ませたこの建物のどの入り口なのかも把握する。
　アイヴォリーは静かに窓の傍を離れた。


　屋内のほとんどの扉は施錠されている。それは無作為にされているかのようでいて実際にはこの建物を迷宮化するように為されていた。何のことはない、兵士たちがこの区画で行っていることを建物内で行っただけのことだ。一般家屋の錠などアイヴォリーにとっては児戯に等しい。複数の逃走経路を確保しつつ、侵入者が自分たちの部屋に到達するまでに出来る限り時間のかかるようにそれは設計されていた。だが、侵入者は相当勘が良いらしい。アイヴォリーが予測しているよりも速い速度でメイリーが待つ彼らの部屋へと向かっている。アイヴォリーは自分たちの部屋の数部屋手前でようやく侵入者を捉えた。
　と言っても壁越し、扉越しにである。相手が明かりを持たずに移動していることは屋内を移動する明かりがないことで把握済みだ。各種の明かりがもたらす臭いもない。明かりを持たずにこれだけの速度で移動している、ということは余程に手馴れているということを意味していた。かつての同業者である可能性も加味しつつ、扉越しに耳を澄ます。月明かりが差し込まない建物の中心部はほとんど真の闇に近い。だが、侵入者が起こす音までは隠し切れない。相手が一人であること、重鎧を身に付けた歩幅の小さな人物であること。その他にも様々な情報を音は与えてくれる。
　運悪く、アイヴォリーにとっては計算された幸運によって袋小路の扉の前で立ち止まった足音を聞いて、アイヴォリーは静かに彼の背後の部屋の暗がりへと滑り込んだ。服装と背丈からして、相手は探索者、妖精族の亜人、夜目、重鎧。ドワーフか。

「ふむ、久しいな。元気じゃったか？」

　唐突に、低い声で彼が言った。

気付かれている！それどころか、自分を──知って──いる！

　アイヴォリーはその事実に驚愕しながらも、平静を装って暗がりから歩み出た。相手が探索者ならば無駄に事を荒立てる必要はない。自分を探してやってきた暗殺者でなければ、の話だが。アイヴォリーは背中を向けたままのドワーフに向かって静かに言った。

「オイ、ココは予約済みだ。悪ィケド宿ならホカを当たるんだな。」

　何かの違和感。まるで、昔のことを夢で見ているような、もしくは夢で見た光景のような。

「はっはっは、久方振りというのにつれないの。儂じゃよ、グババじゃよ。忘れてしもうたか？」

　静かに、それでも豪胆に、そのドワーフは愉快な調子でそう名乗った。

「あっはっは、天下の英雄グババ・ナイツがこんなトコに今頃いるワケがねェダロ。爺さんヨタもイイ加減にしとかねェと……。」

　アイヴォリーが押し殺した声で笑い飛ばす。かつて刃を交えたことのある英雄。数少ない、彼が“名前付き”で呼ぶ中で、さらに数少ない尊敬する者の名を出されて。微かに怒気すら感じさせるアイヴォリーの声音に、そのドワーフはゆっくりと振り返った。