頼りないランプの明かりが空間に揺蕩う。温い風が、どこからともなくゆるゆると吹いてくる。湿った空気が、充満している。
　両側にいくつもの牢が設えてあるものの、そこにいるであろう囚人の姿を、一人とて見かけない。無人の、打ち棄てられたかに思える匣群を一瞥しながらゼイラスは廊下を進む。
　石造りの壁面に、己の足音がいやに煩く反響する。
　ランプが揺れるたびに変化する影がまるで亡霊の姿のように。
　そして確かに先刻より、床を舐めるように薄く、瘴気が漏れ出てきているのが感じられる。
　この地下牢には他の地点よりも、ずっと禍々しい気が満ちている。以前、訪れた時にも下位悪魔と遭遇し一戦を交えたことがあった。
　何かが、ここに特殊な磁場のようなものを形成しているのか。あるいは新王パラダイスの目的は……ゼイラスがかつていた世界の“王”と同じなのでは？
　
　ただ一人、廊下を往くゼイラスは既に気づいている。ある存在に。道を遮るように佇む、その存在に。
　近づくにつれ、瘴気はより濃く、視界を妨げるほどに黝く、滲み出てきている。
　
　立ち、止まる。

　霧状に形成された瘴気は、空気よりも重い気体のようにしてゼイラスの膝から下を覆い隠していた。
　水面を歩いているかのような、抵抗を脚が覚える。

　間違いはない。
　間違えようが無かった。

　発生源は、目の前にいるこの……

「おやおや、こんなところに客人ですか。先ほどの方といい……今日は多いですねぇ」
　やや鼻にかかる、甘ったるい声がした。
　リヤサを着用した男が、細い枯れ枝のような指先で何かを弄りながら半身をゼイラスに向けて。

「……何者だ」

「ラズロ、と申します。
　しがない司教でございます」
　にっこりとほほ笑んで、男は右手を宙へ差し上げた。

　一束の、金色の髪の毛であった。
　ラズロと名乗った男はそれを、人差し指と中指、二本の間に挟み摺りあわせるように動かして感触を、遊んでいるように見えた。

「ねぇ？綺麗でしょう。
　艶があって、指通りがすごくいいんですよ」
　右手を、ラズロがぱっと開くと、ブロンドの髪が空中に飛び散り、ランプの光を乱反射させた。　
　徐に、ラズロは腰をかがめ、腕を、瘴気の中へ。

「彼女の、髪ですよ」
　ラズロの腕が頭部を鷲掴みにして引き揚げてきたのは、女の肢体であった。
　ところどころ千切れ破れた傷だらけの、純白のドレスを身に纏い、生気の通わぬ濁った瞳をこちらへ向け、全身をまだらに発光させた、女の死体であった。
　
「美しいでしょう。
　この、彼女に取り付いているものも、エンブリオの一種ですよ。
　ただし、契約によって主従関係を結ぶ一般的なエンブリオとは違いこれは……人に憑り付くタイプですけどね」

　燐光を放ち揺らめいているアメーバを身に纏い、女の体は奇妙な模様を形成してある種の、芸術性を発揮していた。
　ルミネッセンスを絶えず励起させる、憑依型のエンブリオ。
　
「少し、お話をしましょうか」

「話、だと？」

「生ける屍の王女の話を。
　そう……彼女は名を、ドロシーと言います。
　かつての王の、第二王女にしてとても変わった渾名を持った女性です。
　クルーエルドロシー……残酷のドロシー」

　王女の死体が、つぅと滑るように前へ。憑りついていた燐光が、大気中に散らばり、青白く弾ける。

「彼女は、強大な権力を利用し国中から若い生娘を駆り立て、その生き血を全身に浴び、啜り飲むことで己が美を保っていました。そうすることが、永遠の美しさを保持するために必要であると、本気で考えていたようですよ」

　唐突に、ラズロの声はゼイラスの背後に現れた。意識が、ドロシーへと逸れた一瞬に、移動したのか。
　が、ゼイラスは動揺しない。
　背中に括り付けた巨大な鞘から腐蝕剣を抜き放ち、振り向きざま、斬り払う！
　瘴気が舞いあがりリヤサの裾がばさりと、靡いた。
　ゼイラスの剣戟を回避し、ラズロはゼイラスの右側面へ。
　そちらへ向き直り、見舞った袈裟切りはしかし、ラズロを捉えず壁面を削っただけだった。
　
　壁を蹴って宙へ踊ったラズロの肉体は反対側へと着地していた。
　恐るべき、身軽さ。
　
「フン！！」
　ゼイラスの腐蝕剣ハマス・ソイルがどす黒く瘴気を纏う。周囲に拡がったラズロの瘴気を塗りつぶすほどに、強大で、濃密な瘴気とともにゼイラスの剣が素早く、突きを繰り出す。
　その全てを寸前で見切り、ラズロはステップバックし距離を取った。

「フフ……いいですねぇその剣筋。
　兵舎を束ねている“彼”が喜びそうだなぁ。
　ですが、もう少し辛抱してください。
　彼女のお話がまだ、終わっていないのでね」

ガッ！

　足首を、掴む強い力を感じた。
　眼下に、ドロシーがいた。
　無機質に白濁した眼で、腐敗して爛れた顔面にべたべたと燐光体を貼り付けたグロテスクで。

「彼女は新王によって旧王共々投獄されました。
　野蛮な犯罪者たちと一緒に、この地下牢で。
　彼女は美しかった。
　血を啜っていたからかどうかはわかりませんが真に、彼女は美しかったのです。
　手酷く凌辱の嵐がその身に吹き荒れても。
　王が目の前で、嬲り殺される様を見せつけられても。
　かつて愛したものの破片を、無理に口内に捻じ込まれ咽る時も。
　気がふれて、小さく小さく歌を、口遊みながら枯れ落ちてゆく最後の瞬間までも。
　彼女は……」

　いよいよ佳境を迎えようとする直前に、ゼイラスの躊躇ない一撃が、ドロシーの頭部を突き刺してラズロの演説を中断させた。
　
「……この俺が、そのような戯言に耳を傾け、あまつさえ感傷に浸るとでも思ったか？
　貴様の目的は、別のところにある。
　気づかぬとでも、思うたか！！」

　ドロシーを貫きそのまま床に刺さった腐蝕剣から膨大な量の瘴気が放射状にあふれ出し、ラズロの気を、吹き飛ばす！

「貴様は俺の四方を飛び回り、陣を敷いていた。
　俺の動きを封じるための、陣をな。
　だが脆弱だ、この俺の瘴気の前では」

「……おやおや、ばれちゃいましたか。
　案外、慎重な性格をしているお方ですね。
　では、仕方ありません。
　私も、覚悟を決めるとしましょうか」

　ラズロが両手を持ち上げる。
　掌に、紫色の炎が立ち上り、一つ、二つと、ラズロの周辺に魔の姿が。

「使役するのは得意でしてね」

　いつの間にかゼイラスは、複数の魔物と亡者に囲まれていた。

「あぁそうそう、彼女のお話の結末ですが……。
　実はね、本当は作り話なんですよね。
　創作です、私の。
　残酷なドロシーの最後、お気に召しましたでしょうか？
　ね、ほんとは私なんですよ、彼女を殺したの。
　だって、美しいじゃないですか、彼女の髪、艶やかで。
　貴方の眼もいいなぁ……その眼球」

「フン……単なる狂人か。
　いいだろう、呉れてやる。
　この俺を、斃すことが貴様に出来れば、な！！」

　炎が発生した。
　腐蝕剣にオーバーラップする炎龍の力が、瘴気と爆炎とを掻き混ぜる！！

「……ここ、通せないんですよね、基本的に」

「ならば貴様を消し炭にして、押し通るのみ！！！」

　一薙ぎで群がる雑魚を蒸発させ、ゼイラスは駆ける。
　大上段から振り下ろした腐蝕剣が地を叩き炎を巻き上げ道を創りだす。

　ゼイラスの眼球に、ランプよりもずっと激しく炎が灯っていた。