ｱｶﾞﾂﾏﾅﾙ
吾妻為は覚悟していた。
こんな日がいずれ来ることを。

背後の納屋に逃げ遅れた少年達を押し込み、眼前の獣人と対峙しながら、心中でそう唱える。
そこまでの逡巡はたくさんあったけれど、それでもこの選択に後悔はしていない。

あの背中に憧れ、身一つで世界を渡ったあの時から。
きっとこんな日が来ると、少女は覚悟していた。

咆哮と共に振り下ろされた棍棒から、転げるように回避する。
転げた拍子に散ったネクターが視界をよぎり、花畑に入ったこと――花畑まで離れることが出来たことを、ナルは認識する。

整息の間もなく立ち上がり、剣先を向ける。
しかし反撃はしない。反撃したが最後、今までの悪あがきが無駄になるから。

――ただただ、眼前の亜人が振り回す棍棒にだけ集中する。


数刻前に現れ<庭園>を蹂躙するこの招かされざる客――トロールを相手に、
ナルは、無様に、そして全力で逃げていた。

トロールどもがやってきた――襲撃の一報を聞いたナルは対処を考えるよりも早く駆け出すと、散り散りと逃げ出す村人を誘導し、自身の館へと避難を促していた。

凶暴な獣ならともかく、レンツのいないこの村で――悔しいけれど、情けないけれど――亜人と対峙できる人間はいない。それを痛感している彼女だからこそ、最速で、そして最善の行動に移れたと言える。
そのおかげか、ナルが村はずれで二人を見付ける頃には既にほとんどの村人が避難を終えていた。




ぶォんっ！！



薙ぎ払いをぎりぎりのところで躱す。即死の一撃が顔を掠る。

初動の早さゆえか、この亜人が鈍重だったせいか。被害は家屋と、花だけで済んでいた。
力を持たないナルにとって、その報告を受けた時は奇跡とさえ思った。



だからこそ、きっともう奇跡は起きない。
奇跡に二度目は存在しない。

この目の前の怪物に、私は勝てない。

手汗で滑る剣を強く握り直す。上げた剣先を必死に維持する。

その刹那、先程とは比べ物にならない鋭い一撃がナルを狙う。

棍棒が剣を砕く瞬間、トロールの嫌らしい笑みが視界に入る。
遊ばれていた。その言葉が頭をよぎると同時に、ナルの身体は生命の花びらを散らし、数メートル先まで吹っ飛んだ。

気を失っていたのは一瞬だった。痛覚で飛んだ意識が、痛覚によって引き戻される。
何が起きたのか、どうなったのか――状況を把握する、までもない。否、余裕がない。


痛い。ただそれだけの感覚が全てを塗り潰す。
一振りの剣も、奮い立てた心も。

ふっ飛んだ衝撃で砕けたのか、眼鏡はなく視界はぼやけていた。目に刺さらなかっただけ僥倖か。
ただ、歪んだ視界の端には明後日へ掌を向けた自身の腕が映っている。


失敗した？――違う、これこそが予定調和だ。
痛みが許した唯一の思考――後悔や諦念――がそう呟く。


出生も、生い立ちも平凡だった。ましてや戦いなど無縁の生活を送っていた。
そんなナルが彼らのように戦えるなんて、現実はそう甘くはない。

むしろここまで耐えていたことが驚きだ。
それがたとえ、遊ばれていたとしても。

ズシンッ


目の前に迫る影。それが何かは、眼鏡がなくとも解る。
とどめを刺しにきた――あるいは“遊び”に飽きたトロールだろう。

一際高く、大きくなる影。

怒号とも、咆哮とも取れる声。――幻聴でない、自分の名を呼ぶ声。
同時に亜人の腹から黄金の刃が突き立てられ、巨躯が崩れ落ちる。
再び巻き上がる花びら。その先の人物を、ナルの瞳が捉える。


――世界も、自身を襲った魔物も、そして“彼”も。あの時と同じ事象なんて、何一つない。
同一というならば、精々ナル自身が絶体絶命ということぐらいだ。

だからこれは、本当の意味でのデジャヴ。

“彼”に助けてもらったことは、一度もないのに。――なのにその姿には、どうしようもなく思い、焦がれた“あの人”が重なる。そんな幻想を携え――、

レンツ
彼は、居た。

こんな状況でも変わらない軽口。しかし行動は速く、螺旋の刀身を包帯のように解くとナルの腕を覆う。
覆われた傷は、痛みは、荒波から穏やかな波のように徐々に鳴りを潜めていく。

“あの人”は、こんな力は持っていない。――けれど。

頭に感じる何か。（/あの時のように）撫でられたのだと気付く。

何故かは、わからない。しかしその手が離れると同時に、
持てる全ての力を振り絞り、彼の顔を見ようと頸を上げる。


眼前には既に立ち上がり、背を向ける彼が映る。

両の手には（/あの人のように）二振りの剣をたずさえて。
こちらを向く横顔が笑いかける。

なんで。
なんで、あなたが。

なんであなたは、そんなにも。
まるで、“あの人”のように。


命の危機が去ったのか、血を失った身体が休息を求める。
留めなければならない（/確かめなければならない）――意志とは裏腹に瞼は重く、歪む視界を覆い始める。
青年もまた正面を向く。あの赤い瞳も、銀の髪に隠れてしまった。

振り向いてほしい。
もう一度、その瞳を。あなたの姿を、見せて欲しい。

はりつく喉を震わせ、ナルはその名を呼んだ。

――もう大丈夫だと。その言葉を果たすために踏み出した瞬間、少女の声を聞いた気がした。
振り返った先には緑髪の少女が臥せている。無理もない、傷は治したが血を流し過ぎたのだ。しばらくは休息が必要だろう。

決して血ではない少女の頬の朱を視認し、再び前を向く。

そしてもう一歩、前へと踏み出す。
しかし青年の身体は、その気概に応えようとはしない。

左手の刃は実像が霞み、輝きを失くしつつある。疾風の如く駆け抜けた代償に、エンブリオの力は、既に使い果たした。
王国軍との戦いののち、傷を癒す間もなく駆け付けた。手の握力は戻らず、上がった息は未だに整わない。

否。それだけならば、まだ良かった。



ずきん。

仲間の断末魔を聞いたのか、集まってきた4、5匹のトロールが立ち尽くすレンツを取り囲む。
向けられる双眸達には理性を感じられず――その源泉は同胞の死か――殺意のみが宿っている。

両の剣を手放し、深く“赤い”その瞳を閉じる。


――だから、まだ。まだここで倒れることはできない。
たとえそれが、自分を失くすことになろうとも。


「英雄」という理想を追うのも、「助けたい」という願望に殉ずるのも、
今この瞬間は、脱ぎ捨てて。











そして、瞳を開く。



















※第29回はアズ（521）さんをお借りしてました。ありがとうございました。

廊下の壁に寄りかかり頭をおさえているレンツ。苦悶の表情を浮かべている。
しばらくの間そうしていたが、露の視線に気付くといつものように笑顔を向けた。

だんだんと顔が赤くなり声のトーンが徐々に落ちていく、最後の方は聞き取れずついに我慢できなくなったか後ろを振り向いてしまう。

二段重ねの重箱を取り出しはじめる。
っが、その間の言葉に思わず身体が固まる――

今にも泣きそうな顔で重箱の蓋を開く、中身は質素だが素材はとても良い物を使っているとひと目で分かる。
料理の腕についてはまともに作ったことが無い様だが……必死で教えることが出来れば更新終了前にはお目にかかれるかもしれない。