ヨドとキヨはこの場に居合わせさせない方が良いだろうという虫の知らせから河童に頼み退避させた。
河童もまた同様の予感を覚えたらしく、何も言わず引き受けてくれた。
トモはちゃっかり足元にいる。一度は追い払ったのだが戻って来たので、放っておくことにした。
ふわふわの尻尾が戯れにくるぶしをくすぐる。こそばゆさがいっそ心地良かった。

ティムラハは鼻から息を吐くと、アマハルからプレゼントを受け取る覚悟をする。
子供の頃、アマハルから留守の間の護身用という名目で「犬神」をもらったことがある。
しかし甕の中の犬神が気になって気になって、不用意に開けてしまい卒倒した。
呪物の類はいらない、と泣いてお願いした記憶は未だ色褪せない。
それ以降、何か貰う際必ず覚悟するようになった。ただし、今回に限っては少しだけ期待している。

ヤヒロと呼ばれた「奴隷」を見て、ティムラハの脳内で数多の突っ込み文句が駆け巡った。
血の通っていない肌はアマハルと比べ一層不健康で土気色をしており、
翡翠のような輝きで、しかし無感動さを湛えた瞳は真っ直ぐとティムラハを見つめている。
温かみある生き物であることを全身で否定しているそれは、対等な扱いを望むべくもない「奴隷」と呼ぶに相応しいだろう。

しかし。しかしだ。ティムラハは己の中で最優先の質問をまず口にした。

…………。

はっきり言ってしまえば奴隷という単語から、
ティムラハは肉体労働を前提とした、がっちりかつむちむちした肉体を想像していた。
いわゆる「自分の好みどんぴしゃ」というやつだ。
その期待を真っ向からブチ砕くガッリガリのアバラが浮いた身体に失望は隠せなかったが、
己の趣味嗜好を正しく理解した上で選択されたものだと分かれば、一先ず納得もいく。
溜息一つ吐いてティムラハは気持ちを切り替え、次の質問をした。

ティムラハは目を瞑った。気の抜けた声で、質問を続ける。

居た堪れず顔を彼方へ逸らしているティムラハを他所に、アマハルは無表情な視線を投げてよこしていたヤヒロに同意を求めた。
ヤヒロはにぱっと笑顔を浮かべて応じる。

高圧的な態度で踏ん反り返っていたヤヒロは、
しかしその一言で一転、犬のように地べたに座り込み、飼い主の褒美を待つ期待の眼差しをアマハルに向けた。
口をだらしなく開き舌を伸ばし、荒い息とともに涎が垂れる。
それが犬の真似をしているからなのか、単に興奮しているからなのか、ティムラハには判断できなかった。

態度に合わせて、うさぎの耳が垂れる。
そのやり取りを見て大体察してしまったティムラハは、
あぁ、あの耳本当に生えてるのか、耳四つあるのかよ、と他人事のように思った。
アマハルの「いつもの善意」とねちねちした罵倒に胃もたれを感じつつ、オチのない寸劇が終わるのを待つ――
ただ待つのは嫌だったので、トモを抜け毛処理も兼ねて揉みしだきながら待った。
綿帽子のような抜け毛の塊が、幾つか風に流されて飛んでいく頃、
投げ遣り気味となりつつある罵倒文句にもうそろそろ終わるかと視線を戻す。
涎が気になったのか、ボロ布を片手に近寄るアマハルに、感極まった表情のヤヒロが飛びかかっていた。

あぁ、あれは確かに駄犬だな。

ティムラハは波打たぬ水面の如く、静かに穏やかな心で納得した。
カウンター気味に入った拳に、血やら涎やらをまき散らして気味の悪い笑い声を上げているヤヒロと、
それを踏みつけているアマハルを白けた視界の端から外し、脱力していたトモを抱き上げる。
可愛い鳴き声を一つあげ、首を傾げるトモの咽喉をさすりつつ、ティムラハは飼い主と駄犬の躾現場からそっと離れた。


---

離れようとしていたティムラハの襟首ががしっと掴まれ、
肺から絞られた空気が間抜けな音を立てて咽喉を抜けていく。
咽喉を擦り上げた息に不快感を顕わにするも、
背後のそれに関わりたくなかったティムラハはそのまま強引に足を進めようと腹に力を込めた。
しかし静止の手は抵抗することなく存外するりと離されてしまい、勢いづいきそのままバランスを崩してあっけなく転倒する。
トモはティムラハが無様に倒れ伏すよりも早くその腕から柔軟な身体を捩って抜け出し、華麗に着地し、
派手な擦過音を立て横たわっているティムラハの、その頬をつんつんと突いた。肉球ぷにぷに。

元凶である男はこの上なく馬鹿にした蔑みの表情から、
妄想にどっぷりと浸かった前後不覚の眼を揺らがせて身体をくねらせ震えた。
かと思うと、無表情となり淡々と憎悪の言葉を向けてくる。

どう対応すべきか考えるまでもない。
過去に何度もあったのだから今回だって変わりない。
自然に壊れるまで付き合う。トガクシヒトヒロという人間の思考はそうなっている。

身体を起こし、土埃を払う。
ヤヒロの言葉を右から左へと聞き流しつつ、怪我をしていないか確認した。
ヤヒロはティムラハの態度はお構いなしに、呪詛を吐き、身悶えし、愛の言葉を滔々と語る。
全身で惜しげもなく感情を表現するその姿は見ている分には飽きない。
やがてアマハルにアレされたいコレしたいと、
聞き流すことを逆に憚れる内容を、それなりの声量で語り始めた為、ストップをかける。

ヤヒロは流れるような優雅さで四つん這いとなると、躊躇なく唇を足の甲に押し付けた。
事務的な儀式に余韻など味わう余地はなく、ヤヒロはすくと立ち上がると、
視線を合わせることなく踵を返しハルちゃぁぁぁんと甘ったるい声を上げながらアマハルの元へ駆けて行った。
腰と尻の間についている尻尾がうさぎの短いそれではなく、犬の尻尾ならば、千切れんばかりに振られていただろう。
ヤヒロの唐突な行動と、そのテンションの緩急に見事な置いてけぼりを食らったティムラハは、
そんな益体もない感想でふわふわした可愛らしい尻尾を見送った。

あのぬいぐるみは、何考えているのかさっぱりだが楽しそうにはしゃいでいる。
本心かどうかは分からないが、あれらは納得している節が見えた。
しかしヤヒロは納得しているがしていないという、何とも不安定な状態にある。
抑圧の上破裂するか、自我の根拠を失い崩壊するか。はたまた突然変異でも起こして適合するか。
現状は様子見をするしかない。
なんとも脆く複雑で扱いに困るものをプレゼントしてきたものだ。
あれは「小言」という意味も込められているのかもしれないな――などと思案にくれていると、
背後から上がる悲鳴だか嬌声だか笑い声だか分からない耳障りな声が上がり、考える気力を根こそぎ奪い去っていった。
真面目に考えるのが阿呆らしくなる、酷い音声だった。音の意味は忘れることにした。


ふと下衣が引っ張られ、視線を下す。
トモが足元で直立し、抱っこを強請るように前足を伸ばしていた。
抱え上げると、柔らかい肉球が慰めるように顎に当てられる。

嫌ならアマハルと縁を切る。それだけのことである。
しかし今更切るという選択肢を選べられる筈がないのだから、穏やかで、平坦で、揺らがぬ心で受容する。
それはティムラハという人間の都合から生まれた、支払うべきツケなのだから。
だがヨドにその負債を背負わせてはならない。彼女はまったく関係ないのだから。それは理解しているのだが――

善人では無いんだよなぁ、俺は。
そうつぶやくと、「何をいまさら」とでも相槌するように、トモがにゃあと鳴いた。

最後は軽口を交えて笑って。

出てきた姿にほっと一息。
握手って出来るかしら、と手を差し出しながら。

きらきらと少し自信ありげに答える主にうなだれながらも冷静に突っ込む。

何のかんの仲良くやってるのだろうと思いつつ、毎日相当賑やかだろうという本音。

シュールすぎる光景に目をせわしなく動かしながら。あれ、蛇の頭掴んで尻尾はいたくないんだろうか。