（※前回途中で締め切られたのでやり直し）

　―――湿気は強く、霧は深い。

　乳白色の霧は視界を遮るほどにテントを覆い、城の内部にも関わらずテントの姿を隠している。
　山や谷でもないのに霧の晴れる素振りはない、この霧の正体はロザリアが施した野宿用の結界だった。
　範囲は限定されるがその効果は強力、獣避けは勿論、許された人間以外はおいそれとこの結界をくぐることは出来ない。

「……梅雨の季節よね〜」

　外に一度だけ視線を向けて、アデルは再びテントの中に舞い戻った。
　テントの中は魔術仕立ての拠点となっていて、外から見るより遥かに広い空間と設備を持っている。光源のない内部は篝火によって照らされ、木張りの床がアデルの歩みに応じて軽く音を立てた。

　結界が湿気を帯びるなどという不手際は存在するはずもないが、それでも眺めていれば思い出しもする。
　物の手配や移動中に雨に降られた事は一度や二度ではない。
　貴族とは言えアデルは従者を連れて戦場に出向いてる訳でもなく、自ら傘をさしかける習慣のないために専ら戦場用のコートで雨を凌いでいた。
　この程度で参る事もないが、過剰な水の気配は快適と程遠い。

「紫陽花とか風情があると思うんだけどな」

　テントの奥で来客が相槌を打つ。
　長身痩躯に喪服のような黒いスーツ、銀の髪が鮮やかで、それを首の傍らでブルーグリーンのリボンを使ってまとめている。
　二番隊隊長オルフェ―――今は塔を離れて行動してるらしいが、近くの世界にいるという事でちょくちょくアデルの所にも遊びに来る。

「ん〜……」

　そんな客を眺め、アデルは暫し考えこむ。足を組んだまま首をかしげるオルフェに軽く笑って見せ、そう重大な事じゃないと前置きして。

「ううん、そういえばお姉ちゃんオルフェがお洒落してる所って余り見たことないなぁって」
「僕の二番隊はそっちと違って不精者は少ないよ、勿論僕を含めてだ。ただ男装で付けられるバリエーションは余り多くない、装飾も些細なものにしないと野暮だからね」

　黒のスーツに銀のボタン、ボタンホールからはチェーンが伸びて胸ポケットへとつながっている。腕時計の代わりに銀のチェーンブレスレットがあり、袖には同じ意匠のカフスボタンが輝いていた。
　オルフェの言う通り、お洒落をしていない訳ではないがやはり奥ゆかしい、数々の装飾も黒一色から出しゃばらない程度に押さえられている。

「婚約者以外の前で肌を晒す訳にはいかないから水着はダメだし……彼抜きで楽しむ気にもなれないから浴衣もなしかな。他の子にかわりに楽しんで貰おうと思ってるよ」
「『喪服を脱ぐ気になれない、の間違いじゃないのか？』」

　突如口調を戻したアデルに対して、オルフェは苦笑しながらも軽く舌打ちをする。

「知っているならわざわざ口に出さなくてもいいだろう、気が向かないんだ」
「そりゃあ勿論わかってるけど〜、今生きてる子だっていつかは死ぬのよ？　今生きてる子と遊ばなくていいの〜？」

　ふわふわと質問を重ねてくるアデルに、オルフェは少し困ったように考え込んだ。
　気持ちは決まっている、それをどう答えればという事にだけ悩んで。

「……もう少しだけ、彼の記憶と共にいさせて欲しい。時間が経つと薄れてしまうものだから、それを早める事だけはしたくないんだ」

　オルフェには幼少の時からの婚約者がいる、当然、貴族のセオリーに則った政略結婚だ。
　その事をオルフェは幼少の時から理解させられ、そのための人生を歩いて来た。オルフェにとって幸いな事に、婚約者は理想的と言えるくらいに完璧かつ誠実な人間で、オルフェもそんな彼に精一杯応えようとしていた。

　―――その後、16才で結婚するはずの日に破壊された式場を残してオルフェと婚約者は同時に姿を消す。オルフェはならず者の世界に身を投じ、柔らかな物腰に深淵のような絶望の空気をまとって場数を重ねていく。
　傍らにはいつだって黒いドレスの幼女が剣を片手に付き従っていた、この幼女が元お嬢様を拐かしたのではないのかと一時期噂が流れたが、そう間違ってはいない。

「生きている子たちの事も好きだよ、お洒落だって嫌いじゃない。でも今の僕はあの人を選び続ける、あの人を思い、あの人と共に生きる」

　は、とアデルは苦笑気味に息をついた。お前が自分を痛めつけるような馬鹿じゃなくてよかったが、と前置きして、でも共に生きようとする結果がその喪服というのはどうなんだと口にする。
　銀の髪の華やかさも、女性らしい体つきも、光を通さない黒が全て塗りつぶしてしまう。アデルからしてみれば、それは彼女が自分を閉ざしているのにも等しいのだろう。

「……影と夜にこそ僕の望みがあるから、僕はそれほどこの衣装を忌避している訳ではない」

　傍らに現出させた竪琴をオルフェの指が爪弾いた。低めに調整された音色、荘厳に響くそれは緩慢に終焉へと向かうかのような調べだ。
　僕の事嫌いになった？　とオルフェは笑んで見せる。
　嫌いになったら悲しい？　とアデルは切り返すが、その時は仕方ないとオルフェが言えば拗ねたような態度になった。

「そういうのはお姉ちゃん卑怯だと思います〜〜〜」

　放っておけと言われればその通りなのだろう。
　アデルとオルフェでは大切に思うものも、抱いてる望みも違う。

　ただ、アデルにとってオルフェが生きていられるのは今の一瞬で、だからこそつい手を引いてしまう。
　こればかりはきっと自分より長く生きた永生者たちの方が上手くやる、彼らのように相手の全てを受け入れて、それを是と出来る寛容は羨ましく思う。

　―――80年も生きて、未だに誰かが幸せになる願いを抱く。そういうのが許されるのは、夢の形だけだと言うのに。