人形が何かを思い出すというと不思議に思うかもしれないけれど、淡々とただまっすぐ続くだけの廊下は、ぼくに昔のことを思い出させた。その景色が懐かしかったとか、なにかのきっかけになったとか、そんな理由ではなくて、ただ、暇だったから。
　物心ついたときから、ぼくはどこかの立派なお屋敷の立派な部屋の中にいた。自由に出歩く権利は与えられていなかったから、立派なお屋敷というのはBokuの想像にすぎなかったけれど、部屋が立派だったのは間違いない。
　そのお部屋には、お人形が沢山置いてあった。長い金髪を巻いた真っ白な肌のお人形とか、からくりじかけの怖そうなお人形とかが、無造作に並べられていた。ぼくはそのなかのひとつにすぎなかった。
　最初は、動くことも出来なかった。お人形部屋に入ってきてはつまらなさそうに人形遊びするきれいなドレスを着た女の子を見ているだけだった。ぼくはその屋敷にある他のお人形と違って綺麗でもかっこよくもなかったから、女の子はぼくに見向きもしなかった。だからずっと、見ているだけだった。そうしているうちに、いつしか女の子は人形部屋に来なくなった。
　だからずっと、ぼくは夜になると真っ暗になるその部屋で、ずっと他の人形を見て過ごしていた。
　動けることに気づいたのは、ぼくがぼくであるということを知ってからずっと経ってからのことだった。
　たしか、久しぶりにあの女の子が人形部屋を開けた日だった。
　女の子はもうはるかさんくらい大きくなっていた。
　ぼくはいつもそうしていたように彼女を見上げた。
　きしりと小さな音が鳴ったかもしれない。
　彼女が、驚いた顔をしてぼくを見下ろしていた。


「…うわ」
　思わず声が漏れていた。
　はっとするくらい真っ白な肌。
「血が通ってないからね」
　ドキッとするくらい物憂げな、悲しそうな瞳。
「未練があるんだよ」
　まっすぐ通った鼻筋。
「矯正しほうだいだから」
　血を塗ったように真っ赤な唇「塗ってると思う」どうしても視線が吸い込まれそうになる。
　さらさらの髪が、生きているみたいに波打っている。
「そんな人間見たことあるの？」
　わたしは頭を振った。見たことあるわけがない。
　こんなイケメン、見たことない。
　視界の片隅で、お人形君が呆れたように肩をすくめている。
「あれもエンブリオだよ」
「……うそ？　だってすごいイケメンだよ？　エンブリオなのにそんなことありえなくない？」
「はるかさんがぼくのことをどう思ってるのかわかっちゃった気がするなぁ」
　ため息をつくお人形君を後目に、胸ポケットの労働契約書に手を伸ばす。あのイケメンがエンブリオなら、もしかしたら襲ってくるかもしれない。
「……イケメンなのに？」
「はるかさんのイケメンに対する信頼感はなんなの？」
「空も飛べるはず」
「想像上の生き物なんだね」
　念のためお人形君にもう一度確認してみたけれど、お人形君は冷たい言葉を返しただけだった。

　状況を整理しようかな。わたしも落ち着く時間がほしいし。
　実はまだ、研究室の廊下を歩いてるんだよね。行けども行けどもゴールは見えない、気ばかり滅入っていくるけれど、確実に王宮に近づいてるって信じて、ずっと歩き続けてる。これだけ足を棒にして（足のないひともいるけれど）歩いていると、引き返すのもなんだか億劫で、口数も少なく私たちは歩き続けていた。そしたら、いつもどおり、この研究室を守るエンブリオと遭遇して、襲われそうになってるってわけ。
　……整理するようなことなんにもなかったね。
　イケメンが腕を振り上げた。拳の中には小さなナイフが握られている。緩慢に振り下ろされるそれを大げさに後ずさって避ける。イケメンの動きはそこまで早くない。顔にすべての力を集約しているのかも。
　労働契約書を取り出して、手伝ってもらうエンブリオのページを探す。この世界では、人間に出来ることなんてほとんどない。魔物と戦うのだって魔物の力が必要なんだ。だから、わたしたち一揆に参加している冒険者はエンブリオと呼ばれる魔物たちと契約をして、その力を貸してもらわなくちゃいけない。
　相手が緩慢なイケメンだからって、力を貸してくれるエンブリオを吟味している時間はなかった、適当なページを開いて、目に付いたそのエンブリオの名前を呼ぶ。
「ジャックランタン！」
　名前を呼ぶと同時に、巨大な炎が緩慢なイケメンに襲いかかった。
　鈍い頭痛と、どっとした疲れ、ほんの一瞬、足の力が抜ける。
　力を貸してもらう代わりに、わたし達一揆参加者も彼らに何かを差し出さなくちゃいけない。日本でもそうだよね。人を雇ったら、お給料を払わなくちゃいけない。お給料を払ったからといって、なんでもさせられるわけじゃない。
・労働契約は、労働者及び使用者が、対等の立場に置ける合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする。
　労働契約法三条の条文にもそうあるけれど。それは、この世界にきたって同じってこと。わたしとエンブリオは奴隷とその主人じゃない。あくまでも、対等の立場で労働契約をした、個人と個人にすぎないんだ。



「わたしのかわいいお人形さん」
　ぼくに命令されて踊る奴隷たちを楽しそうに眺めながら、彼女はぼくの頭を撫でた。
「この世界のルールを教えてあげる」
　彼女の言っていることはよくわからなかった。ただ、彼女の言うとおりにすると、彼女はとても喜んだから、ぼくは彼女の言うことだけを聞いていられればよかった。
「王様は絶対なのよ」