先を行くみんなに遅れないように歩を進めると、床を濡らす得体の知れない液体がぴちゃんと小さな音を立てた。
　うぇ。
　微かに粘つくそれに眉をしかめて、平静を保つために口の中で呪文を唱える。
　労働基準法。労災の傷害と遺族以外の給付、雇用保険……。
「なにそれ？」
　腰のあたりから不意に聞こえてきた声に、わたしは小さく悲鳴をあげた。ただでさえ不気味な研究棟なんだもの、この世界に来てからずっとの（それでもそんなに長くないかも）付き合いとはいえ、急に声をかけられるとびっくりしてしまう。まして、怖さと気持ち悪さを紛らわすためとはいえ、可愛くも何ともない法律の名前をぶつぶつ呟いている途中だったら、尚更ね。
「……聞こえてた？」
　おそるおそる聞き返すと、ちょうどわたしのすぐを歩いていたお人形君が、あきれたような無表情で「ちょっとだけ」と顔を上げた。
　お人形君は文字通りお人形のようなエンブリオで、顔も人間とは構造が違うから表情を変えることは出来ないんだよね。瞼が開いたり閉じたり、口が開いたり閉じたりするだけ。世界が違うっていうのに、わたしのいたところのお人形と本当にそっくり。
「今度お人形君に話そうと思ってたことの復習をしてたの。ここってなんだか薄気味悪いし、ほかの人たちがいるにしても、ちょっと怖いじゃない？　ゾンビとか出てきそう」
「あれもエンブリオだよ？　怖い？」
　幽霊とかゾンビとか、わたしの感覚だと怖いけどなあ。
「うーん、襲ってくるのはみんな怖いかも」
「じゃあ、どこも一緒だよ。エンブリオのことを怖がっちゃだめだよ」
　そんな風に言われちゃったら、怖がっているのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。自分よりずっと小さなお人形君が堂々としているのに、わたしがいつまでもびくびくしているのも、なんか恥ずかしいしね。
「じゃあ、怖がらない」
　お人形君に笑いかけると、お人形くんはコクコクと頷いた。その無表情がうれしそうだったのかどうだったのかはちょっとわからない。

　研究棟の廊下は、それこそ何日かかっても端につかないんじゃないかというくらい長かった。一緒に一揆をしている人たちの背中越しに見える廊下はどこまでも続いていて、しかも照明だって薄暗いから先がどのくらいアルのかなんて見当もつかない。一緒に歩くグランというおじいさんは、この研究棟がお城に通じているかもしれないみたいなことを言っていたけれど、もしかしたら本当にお城の中に通じる隠し通路なのかもしれない。だって、建物の中歩いているのだとしたらいくらなんでも広すぎるからね。地下通路からずーっと、お城まで続く道のひとつなのかもね。
　四方を壁に囲まれて長いこと歩いていると、だんだん時間の感覚が薄れてくる。たまに曲がり角を曲がったり階段を下ったり上ったり、襲いかかってくるエンブリオを退治したりしてるうちにもうずっとここから出られないんじゃないかって不安になったりもする。それは一緒にある苦みんなも同じみたいで、とくにゆあちゃんなんかは虫が少ないからちょっとご機嫌斜めだ。わたしたちはいつの間にか口数も少なくなって、疲れた足を前に前に進めるだけのロボットみたいになってた。
　そんなとき、不意にお人形君がわたしの左手の裾を引っ張った。どうしたの？　と声を出す代わりに顔を向けると、お人形君はそのぱっちりとした瞼を開いて、まっすぐにわたしに視線を向けた。
「どうしてワイバーンを解雇したの？」
　ほんの数日前のことだった。
　この長い一揆に参加しているうちに、わたしは何人ものエンブリオと契約していた。この世界では人間はエンブリオの力を借りないとなんにも出来ない。火を起こすことだって、食べ物を作ることだって、襲ってくるエンブリオたちから身を守ることだって、結局はエンブリオと契約しないと満足に行うことだって出来ないんだ。そういうの、わたしの居たところでは、自然の摂理とか言ってた。それがこの世界のルールで、そこに生きる人はそのルールから逸脱することは出来ない。
　でも、エンブリオとの契約だって無尽蔵に行えるわけじゃなかった。ネクターっていうお花が必要なんだよね。一揆に参加するときにいくらかもらったけれど、それだって無尽蔵じゃないから、省エネできるぶんは、省エネしなくちゃいけない。
「ワイバーンはね、怪我しちゃってたから。連れて行ったら足手まといになっちゃうでしょ？」
　一揆に参加することになって、わたしだってずっと迷ってたんだよね。この世界の反乱に力を貸していいのかな？　って。だって、それは元の世界に戻るためにその方法を探すとか冒険するのとは訳が違う。この世界の王様を倒して、王様に奪われたネクターを奪い返すっていうんだよ？　そうするしかなくたって、やっぱり躊躇しちゃう。
　でも、お人形君についていって、この先に進むなら。多分、もっと強くならなくちゃいけなくなっちゃう。
　怪我をしたワイバーンの分まで、気を回せなくなっちゃう。
　そう伝えると、お人形君は足を止めた。
　隣を歩くお人形君が足を止めても、わたしはすぐには止まれない。一歩二歩前に進んでから振り返って、お人形君に今度こそ「どうしたの？」と声をかけた。
「はるかさん。契約がなくなっちゃったら、僕たちはどうやってネクターをもらったらいい？　ネクターは王様がみんな持って行っちゃったんだよ？　急に解約されたら困っちゃうよ。はるかさん。労働基準法」
　お人形君の言いたいことはよくわかった。
　というのも、ちょっと前に教えたことがあって。
　労働基準法には、解雇にあたって守らなくちゃいけないことに、こんなことが書かれているんだよね。

・使用者は、労働者が業務上負傷しまたは疾病にかかり、療養のため休業する期間及びその後３０日間は解雇してはならない。

・使用者は、労働者を解雇する場合においては、少なくとも３０日前にその予告をしなければならない。３０日前に予告をしない使用者は、３０日分以上の平均賃金を支払わなければならない。

　平均賃金というのはちょっと置いとくとして、怪我したワイバーンを解約しちゃうのも、なんの予告もなしに解約しちゃうのも、おかしいってお人形君は言いたいんだ。
「わかった。お人形君の言うとおり、もう解約しない」
　わたしがそう言うと、お人形君はいつもの無表情で頷いた。
「はるかさんと言ったか、なんで一揆に参加したんじゃ？」
　ふと前を歩くグランさんの掠れた声が冷たい廊下に反響した。立ち止まって話していたからか、前を歩くみんなとは少し距離が開いてしまっている。そのことをわびながら走り寄るとグランさんは、
「よいよい、歩き続けるのは老骨にはちと骨だからのう。ちょうどよい休憩になる」
　いかにも好々爺といった風情で笑った。
「それで？」
「なんとなくです。お人形君についてきてって言われたから。ここではそうするしかなかったみたいだし」
「そうか」
　にこにこと頷いて、そのままグランさんはお人形君の側にしゃがみこんだ。
　隣で見ているとその様子はまるで孫と戯れるおじいちゃんみたい。
「のう、お人形君。おままごとは楽しいかのう？　人形使いのエンブリオよ。この娘はこの世界には関係ない。いい加減、解放してあげたらどうじゃ？」
　えーと、人形使い？
　どういうこと？
　顔をのぞき込むと、お人形君が叩きつけるように叫んだ。
「はるかさん、聞かないで！」


　気がついたら、わたしたちはまた長い廊下をまっすぐ歩いていた。みんなの口数は少ない。あしだってもう棒みたいになっているし、そのペースも落ちてきてる。隣を歩くお人形君を見下ろすと、相変わらずのいつもの無表情。疲れてるのかもそうじゃないのかもわからない。
　視線に気がついたのか、お人形君がわたしを見上げた。
　その視線が何かを言いたげにうろうろと宙をさまよった後、カタカタと口が開いた。
「はるかさん、許して」
　そんなこと言われても、わたしにはなにも許してあげることがなかったから、「いいよ」とだけ返事をした。
　どうしたんだろう？
　不思議に思いながら、研究棟の廊下を歩いていると、不意に、お人形君が、
「やっぱり、許さないで」
　と呟いた。
　なんのことだかさっぱりわからなかった。だから、
「わかった。許さない」
　と答えた。なぜか、ちょっとだけ胸に違和感が残った。それはなんだか、どうにもならない人生に対して拗ねてみせたころの小さな小さなしこりに似ていた。
「はるかさん、許すか許さないか、自分で考えてよ」
　お人形君の手がわたしの左手の裾を引っ張っていた。
　そんなことを言われたって、何を許すのか許さないのかわからない。自分で考えてって言われても、困ってしまう。
　うーん……。
　許すも何も、わたしは、なにも感じてない。
　なにを許したらいいのか、怒ったら全然わからない。
「じゃあ、こうしましょう？　２年間は許してあげない。でも、その後なら許してあげる」
　お人形君が、目をぱちくりとさせた。
「なにそれ？」
　ほんと、なにそれ？　だよね。わたしが聞きたいくらい。
「労働基準法。労災の傷害と遺族以外の給付……全部言ったらきりがなくなっちゃうけど、社会保険の時効って、だいたい２年か５年なんだよね」
　だからさ、と前置きをして、わたしはお人形君の頬をつついた。
　お人形君がなにを気にしているのかよくわからないけれど、
「わたしが怒らなくちゃいけないことがあっても、２年経ったら時効ってことでいいんじゃないかな」
　その時ふと思った。お人形君の歩幅じゃ、みんなについていくのも大変そう。
　手を引くと、お人形君ははじかれたようにその無表情な顔を上げた。
「はるかさんってずれてるよね」
　前を歩くグランさんの肩が笑うように揺れていた。