この森はいつ来ても月に濡れていた。周囲が暖かくなって、夜であろうとじっとりと汗ばむ季節になる。
　さく、と踏みしめるブーツの一歩も、つま先まで沈み込むのがざらだ。暑さに耐えかねて舌を出して体温調節したい衝動に駆られるが、そんなみっともない事を出来る筈もなく。
　視界の先は銀の月光を弾いた青葉が出迎えてくれていた。林立する木たちとの影のコントラストとも相まって、目に眩しい。
　目印の、自分の腰ほどの高さもあろうか黒い岩が見えてきて周囲を見渡した。は、と吐き出す息の欠けらが四つほどに数えられた頃、急に世界は真っ暗になった。
　眼を閉じたわけでも、見えなくなったわけでもない。辺りの世界が急に薄暗く、月明かりは大きな影に遮断されていた。

「やぁ　《リリス》か？」

　野太くも明瞭で涼やかな声。はるか上から、のっそりと太陽が目覚めたかのように体を起こしていた。
　現れたのは大きな大きな人型。おおよそ5メートルはあろうかという体躯。息を切らす偽へと、挨拶と一緒に問いかけた。
　圧倒的なとにかく存在感は偽の眼を釘付けにするには十分だった。これだけ間近にいるからか、その巨体から歯車の音と関節がきしみあげる音が聞こえる。

「はい」

　そこで待ち伏せていたのだろうか。白く巨大な人型を、一望する為に一歩二歩と下がってみる。少し歩いた程度では、されど上半身を見るのが精一杯だった。

「《アスタロト》あなたは……話には聞いていましたが巨人…を模った機械……でしたよね」
「正確には妾は人造人間。生き物らしい意思は備えてあるがのぅ。我は一つ目怪物の因子を持つ残滓に過ぎないがな」

　首を振って、その面ざしを改めてとっくりと眺め入った。白雪の淡さに、対称的な暖色の、種の違う赤の宝石のような瞳。

「ここにきた用は――まぁ、貴様の仕事のことか？」

　巨人は首を傾げた。

「ああ、そうだ。妾のことはイオン、と呼んでおくれ」

　指を宙にくるくると回して、己の文字を己と偽の知る共通言語で描いた。
　白皙の面に浮かんだ、柔くほころぶ柔らかな笑み。少し茶目っ気が帯びる。

「……私は偽、と名乗っています」

　それがとても人間らしく、機械だ異種だということを忘れさせる。

「さて、」

　一度空にやっていた視線を、まじまじと偽の方向に。

「偽、お主がどこまで把握しているのか妾は分からないが。……そうだな、この混乱の中で、どういう思いで、どんな行動を起こそうと思っているのか、よければ聞かせてもらえるか？」

　問われた言葉に瞬いて、頬に手を添える。瞳を横に流して考え込む素振りをとった後。

「私達《王》の指は世界の安定を測るのが使命です。正も悪も混濁しながら、より良い結果であるならその使命を徹したい。今回の一揆も、それが望みなら善悪問わず、安定を求めて手を差し伸べる。今は目標を見失っていますが、人を探しながら出来る限り、出来る所まで、やりたい」

　頬にそえていた手を、ぱっと開いてみせた。

「……それは表面的な《王》の命だということは理解しているか。そんなものはただの戯れに過ぎないというに」

手を握り込んで、下ろす。目を伏せて小さく溜息をつく。
イオンは問いに考える様子をじっと見守りごちると、彼女の言葉にじっと見据える。

「……貴様には呪いがかかっているらしいな。大神の呪と言った所か。呪ったのは、貴様の前任者……仕えていた主……形式上は養父だったか」

　悼むよな声で呟くように告げる。
　大神。かつて《リリス》と九番目の名を持っていた男。ここに落ちる前に彼に残された爪痕は、今も体に刻まれたままだ。
　偽は胸がちくりと痛くなるような感覚を覚え、胸元の服を掴む。

「貴様は人と関わり会えば会う程感情が消えていく。与えられるのは痛みでも苦痛でもなく忘失だ。それは……仕事、じゃないんだ。仕事だったなら貴様は恐らく受け入れるだろうが。しかしこれは反発してしかるべきだろう。もう何日だ。1つの月をまたぐほど放置していて」
「もういい」

震えた声は、声を遮った言葉は、長い長い沈黙の後に見上げた目は、月の光を受けて水晶体が輝いている。

「もういい、って思ったんです。自棄になっても、彼がクズに与えてくれるものなら、もういいって……思って」
「……なら、《王》の意思は理解しているのか」
「知って、ます　よ。でもこれは私の咎のようなものです。業みたいなもの、です。でもこれがあるから、私は私足りえる」

　曰く、己を構成する自分の存在意義。曰く己の道筋。か細い枝に捕まっているだけで、いつ壊れてもおかしくない。それほどに脆い存在感。
　願いをかなえるために歩き回るのは他人の為であり自分の為。むしろ後者の意味合いがもっとも強かったのかもしれない。
　誰にも必要とされなかった過去がある。妖魔と人間から追われ、半端者だと妖魔に追われ。何もなくなった時に得たのが彼の寵愛。そして《リリス》を受け継いだ。

「でも　でもどこにも……探している人はどこにも、いなくて。会えな　く　て……！」

　だからこそ、は今道を失って荒れる。自分の生業が思う様まわらなくなって、ふさぎ込む。
段々と感情の発露が難しくなってきているのを日に日に感じていた。パペットに付加した魔法で偽装もした。姿形を変えた、時に己の体を他人に明け渡したりもした。
　それでも一向に改善されたことは無い。抑制されることはあろうと、止まることはない。

「――ほう」

　そうしてましろの瞼が、暖かなまなざしが伏せって、吐露された言葉にわらった。口角は持ち上がりつつ目は少しもゆるんではいない。ゆっくりと瞬きつつ、打ち付けるように沈み込んでいる偽を指で小突いた。

「あう……！」

　指は偽の体ぐらいの大きさだった。人間以上の質量で、速度は桁違いのものが頭を叩いたのだから痛みは一塩。涙目になってひりひりする頭を擦る。
　足はひざを折って、ぺたんと呆けた表情をしていた。

「ただ自分で逃げ道を塞いで、引き籠ったではないか。そんなことでは周りが見えないのも当然だ。妾は子を儲けた事は無いが、子の遊び相手は人間の一生分やってきた。
　呪いを気合でどうこうしろと無茶な事は云わないが、その悲観は悪い癖のようだ……勿論、妾の勝手な見解だけどな」

　瞑目するように間をおいてから、ゆっくりと目を開いて、怯える『子供』を見下ろす。

「……悪いな。妾にはそういった呪術の類は明るくない。所詮機械に等しい人造生命よ。そういったものは効かないのだ。知識と見聞きした情報だけで論ずる故に頭の回りが悪い。が、止まっているのなら、止まってても動きたいと申すなら実力行使が一番なのじゃ」

　表情を変え、ふ、と息を吹く。辺りを覆う木々が、それだけで葉を揺らす。
　玲瓏のようにおとなしくしている偽は、どこか意外そうに相手を見上げる。感じ入るようにも間延びさせた声を発して頷き返した。

「……でも」

　イオンを見据え、伺っていた眼差しを。途端に揺らがせ、あからさまにそっぽを向いて。ぱくぱくと口を水を求める魚のように喘がせて、苦虫を噛み潰したように奥歯を噛んだ。

「……お主はとんと面倒な性質じゃな」

　呆れどころか憐みすら感じられる言葉だった。偽は噛みしめたものを仕舞って喉を鳴らす。早くに答えを言うよう、汗ばんだ手を振るった。

「私っ……私はいらない、って……必要とされないから……っ、……このままじゃまた捨てられて……ッ
　探さないと、命令……使命を、果たさないと役立たず、って……いわ、れ……！」

　狼狽と激情。吐き出すのは嗚咽。一緒くたになってごちゃ混ぜになる感情は揺れ動く。

「貴様の言う咎というものか、それは。必要とされないから縋るものがそれしかないと？」

　体を掻き抱いて倒れ込む偽は震えたまま首肯する。

「……余計な節介やもしれんがな。例え貴様が『いらない』モノだった……としても、それは同時にどうしたって必要なものだった、とも思うよ。生まれた時からいらないものなんてない。なればお主を肯定してくれる者を先に探せば良かろう」

　口をはさむことはしなかった。できればそうしている、なんて……そう反発しようとした言葉は詰まってしまった。
　偽はいつも笑ってた。のんびりもしていた。時々怒っては泣いて、冗句を言ったり戯れたり。くだらないことだってしていた。零しだすのは無感動的な口調と声だが、僅かな語彙によっては優しい声。
　己はそれが楽しかった。そして自分を、きっと肯定してくれていた。受け入れてくれていた。
ただ、甘んじれば甘んじるほど、呪いは強く蝕んでくる。
　ただ疲弊して震える彼女の目元は泣き腫らして赤くなっていた。

「それぞれの思惑があることを、分かってはおる。誰某が何を考えているかなぞ探れても、心中を察すのは妾には難しい。…ただこれは、妾のわがままじゃ。だからお主とて妾に怒って良いと思う、が……まあ、そうきたら妾とて怒るがな」
「呪いは……呪いを…消す方法は」
「さてな。本人に問いただせれば良いが、生憎行方までは知らん。現在の番号を持つ者とも、ここでは限られておる……。
　その呪い。決して殺す為でも、苦しめる為に付けたものでもないと推測する」

　一つ間をおいて、撫でる指を離して偽に向ける。戯れの笑顔を張りつけていたが。

「死ぬことで――」

　不意に笑みは途絶えた。

「逃げないようにする為じゃ。仮死になればその場から形を失って、お主が最後に好んだ場所へと消えて、帰って行く。我々《王》の指は総じて不死の力を受け継いで与えられたが、同時に我々に課せられた……貴様の言う使命を果たす為に、消さないための、緩やかな束縛を突きつけてきた」

　何かを堪えるかのよに、ささやくように零す。
　すい、と見下げた視線は偽の深い色を見上げるよにして向けられ、困ったように笑った。

「それと試したかったのではないかの……。本当に貴様に素質があるかどうか、先代からの不器用な試練として呪いを当てた。……そう思っているのは妾だけやもしれんが、泣きわめいてきた事に返すならこんな所じゃ」
「そう、なんで　　しょう　か？」

　どうにもやや不安そうに、自信なさそうに、語尾は徐々に明瞭で無くなっていった。
　ずび、と鼻を啜ってみっともない顔を。膝を折って地面に座り込んでいたせいで、裾は土でどろどろに汚れていた。

「真意は分からんよ。それより、そろそろ落ち着いてくれたなら助かるがな。いつまでもうじうじしておったら、その細い体に拳骨をめり込ませることになりかねん。嫌なら精々抗って見せろ。それでも人とかかわりを持つならな」

　穏やかな声色でそう言ったイオン。
　かつて主と同じような事を言われた。思慕し、信頼し、時に畏怖する主と変わらず。けれど巨大な体から発せられた声は威圧感等はなかった。
　拳から鳴る歯車の駆動音と蒸気が、周りの獰猛な獣たちを追い払う。今もまた、大型の鳥類がばさばさと騒がしく飛び立っていった。

「……話を聞いてくれて……ありがとうございました。
　本当に……ありがとうございます」

　情けない顔を引っ提げて、それでも真摯に説いてくれたイオンにはどのような感情を抱いたのであれ、敬意を表して礼を表さねばならない。
　救われたわけではない。引き上げられた、という程高尚でもない。本人とてそう思っていない。
　うつろいだ体が少し地についた……様な気がした、ただそれだけ。
　その時、山の下から仲間の声がして、そちらの方に駆ける。小さな影が2つ。極小の存在が幾つか。
　また振り返り、僅かに頭を下げてから、後足を退いては緩やかに踵を返してその場を後にしていこうとした。

「貴様が」

　その足は、不意に止まった。

「貴様が落ちてきた時に、傍には何があった。我々が呼ばれるのは我々が通じる言語を持つ者だけだ。貴様の傍に何がいた」

　使命を訴える者を、願いを叶える対象を。導が本当に間違ったのか、探しても探しても見つからないなんてことは、あるのか否か。
　数十秒の後、失礼します、と巨人に背を無得た儘、歩き出す。
　彼女達と合流する前に草陰に隠れると、偽は弾かれたように背中に手を当てた。衣服の中から弄って、空いている穴に手を『突っ込む』。
　僅かに苦悶しながら、体の内側がかき回される奇妙な感覚を受け入れる。やがて一本の花を手に取る。









　そこには赤々とした宝石の様に輝くネクターの花が変わらず咲き誇っていた。

パペットのいう言葉に首を傾げながら言葉を傾けた。

突然の質問に驚きながらも少し恥ずかしげに答えた。
この前修復して頂いた指輪は左手の薬指に嵌めていたりする。

お家の事情というやつらしい

自分が惚気話をしていることに気づき、恥ずかしそうに眼をそらす。

まさにその通りだよと頷く。

自分を指し示して偽にそう問うた。

　それから、つらつら並べられる食べ物については。

　自分の言ったことを気にしてなさそうなら、少しほっとしたように。

―赤き星が脈打つように明滅する

　…と書かれた垂れ幕を足で掴みながらあちこちを飛んでいる