本は版を重ね、そうして増えていく。ひとつひとつと。


＊　＊　＊


本のページをめくるように記憶を探って、思い至ったのは僅かな情報。
物語に直接繋がるような人物では無さそうでも、男の記憶に関わるには違いなく。
半ば無意識の言葉をひとしきり落としたところで、自らの方へ向けられた指先と、
同じ事を考えたらしき彼女の様子に、肩を大袈裟に揺らして笑った。

「兄弟か……話には出てこねェけど、居たりするのかもなあ。
　おれが首を落とされて眠りに就いて、ふたたび本が開かれて甦るまで、
　もしかしたらその“兄弟”が代わりを担ってくれてるのかもなァ…。
　……いや、流石にそれは無いとは思うけど」

物語に出てくるジャバウォックはただの一匹だけで、
二匹登場した話は――少なくとも世の本屋で話題に上がって居ないから――ないのだろう。
可能性を探れば、本に干渉する能力を持つものが何かしらの書き換えを行ったか、
物語に入り込んでストーリーを弄り倒したか、想像だけなら幾らでも巡らせられるが。

いずれにせよ、何の確信がある訳でなく。
ただ、忘れてしまった事実を、男は今更のように申し訳なく思うばかりだった。
世界を渡り始めて―――忘れてしまった記憶が多いと感じる程度に、時は過ぎて。
或いはその人物は、まだ何処かで男を待っているのかも知れない。その日が来るまで。

「………、」

エンバーさん、と、名前を呼ばれて顔を上げる。
悲しそうにしたり泣きそうになったり、笑ったり、くるくる変わるその表情を見る。
無為な心配を掛けてしまった。けれど嬉しかった。彼女のその、気持ちが。

世界が違えど、本屋や図書館が取り扱う本のラインナップにそうそう違いはない。
きっとあるだろうと頷いた所で、おもむろに腹が鳴って、思わず瞬きが落ちた。
男が上げた人物の面影に、お互いが同じ事を思ったように。
今、この瞬間も。同じ事を思ったのだろう。

「ふ、…ッはは！
　あーあーそうだよホント、すっかり忘れちまってたなあ。
　本屋まで出掛けるのも本を探すのも、まずエネルギーがねェと無理だよな」

お互いに顔を突き合わせてくつくつと喉を鳴らし、彼女の照れ笑いを楽しげに眺める。
食事の間は、ひとまず本を閉じて。


「―――今日のご飯は？ヤドランカ。良けりゃァおれも何か手伝うよ」

きょろ、と、彼女の姿を探すように視線が周囲を巡る。が、見つからない。
何処で逸れてしまったのだろうか。自らの失態に舌打ちしつつ、正面を見据える。

―――無事で居てくれればいいのだが。

一度は悲鳴を上げたものの、彼の呼気に笑みの色が乗ったを聞けば。
身を縮めたまま、けれど目はまん丸にして聞き入った。

たちまち、ぱあぁと音がせんばかりに顔がほころぶ。
同意を示すエユプにくるくるまとわりつかれる彼に手を引いてもらって、立ち上がる。
別にひとりでだって立てるくせに、彼の優しさにつけ込んで、わざと。
嬉しさに混ざる後ろめたさで、ぴるる、とおしりが揺れる。
自然、笑みがおなかの底から湧き上がる。

まるで小さな子がそうするように、つないだ手を軽く揺らせた。


＊　＊　＊

そして、それからしばらく経ったある日の夜のこと。

火を絶やさないように小枝をくべながら、眠気覚ましに詩を吟じる。
小さな声を聞き逃さぬよう、エユプをはじめとするエンブリオたちが、聞き逃すまいと近くを漂う。
ふと、その内の一体が彼の足音を聞きつけて顔を上げた。

隣りに腰を下ろす彼に、ぱちぱちと瞬いていたのだが。
差し出されたそれに、先日のようにくるりと目が丸くなる。

とは言いつつも、嬉しいのはその顔からばればれ。
手の上に乗るその袋の、愛らしい形に結ばれたリボンに目を落として。
かわいい、と指先で呟き触れようとしたところで、リボンはからかうようにするりと解ける。

返事を待たずに一枚つまむ。
ぽくぽくとした舌触りと、甘さと塩辛さに、「エンバーさんも」と言いかけたのを飲み込んで、大事そうに胸に抱く。

がしがし頭を掻いている彼の隣、幸せそうにもう一枚、もう一枚。
その、ふわふわと緩んだ頬が赤らんで見えるのは、きっと炎のせいだけではない。
ほわほわと幸せいっぱいの顔でクッキーをつまんでいたのが、彼の言葉に手を止めて。
ぴこぴこ、と尾羽を震わせ、とすん、と彼にもたれかかろうと。
その姿勢のまま、彼を見上げて。

いつも後ろにあった姿が無いと言うのは、どうにも落ち着かない。
がしがしと頭を掻いてから、現れた兵士を一瞥して。

ざわ、と、足元の影がゆらめくように動いた。

男の指に嵌る指輪から、不穏な気配が漂い始める。

言うが早いか、来た道を駆けて戻って行く。

黙々と、爪を丁寧に磨いている。

ボロボロになったベストが春仕様に生まれ変わった。

きょろきょろと、周囲に目を配りながら来た道を戻る。
兵舎を抜けた辺りで見覚えのあるシルエットを見つけて、瞬き。

見間違うはずがない、あの姿は―――

その名を呼ぶなり、駆け足で彼女の元へと。