―――水の気配を濃く感じる場所にいた。

　視界は多くの水で占められ、ふとすれば滲みそうで、虚空に添える手ですら大気中の湿気に触れる。
　映るのは一面の白と空の色を映す水色であり、朽ちた大理石の構造物が溢れる水に寄り添っていた。

　人の手から離れた自然の美をなんというのであったか。
　水の音は絶えず、一定のリズムで響く旋律は人の精神を引き込む。死にたくなるほどに穏やかで、そういえば仲間の中に同じような奴がいたな、とアデルは思い出していた。

　―――　「一曲聞いていくかい？」

　そいつは銀の髪を青緑のリボンでまとめ、依頼さえなければ塔の三階で竪琴を爪弾いている。
　二番隊隊長、オルフェ。その歌は魔力を消し、相手の動きを止め、死者を土に返す。通常よりは1オクターブ下げた程度の優しい歌声、その穏やかさはまさにこの場所と似通っていた。強制かつ絶対的な平穏、争いの無為さを理解させるどころか、魅入られたら動き自体を無為として呼吸を止めてしまいかねない。

「『―――なるほど、ただの行き過ぎだと思うが、平穏というのは毒なんだな』」

　大理石の足場を踏み、水辺を次々と飛び越えながらアデルは奥へと歩みを進める。金属で補強されたブーツが床に触れ、極僅かに硬い音を響かせた。
　こんな場所はとっとと立ち去るに限る、オルフェの歌に身を浸せば骨抜きになるように、この場所も同様だろう。
　生きているだけで、死んでいるのと全く変わらない。

「……情報ではもう少し先に番人がいるそうよ、今日辿り着く事はないだろうけど」
「『そうでなくては困る、今日此処に来たのは別の用件だからな』」

　いい加減刺激が欲しい、今は虚勢を張っているが、そろそろ静寂さに殺されそうになる。
　一際高い柱に飛び乗り、ぐるりと周囲を見渡した、刺激がないなら自分で引き寄せるしかない。

「『―――来い』」

　集中を込めて一帯に無差別な殺気を放つ。単独行動につき余り大人数は相手に出来ないが、敵の何体かは反応を示すだろう。
　神経を研ぎ澄まし、周囲の反応を探る―――来た。

　瞬間、感じたのは背筋を凍らせるような冷気。
　強敵を前にした悪寒か、或いは物理的なものか、アデルは咄嗟に判断がつかなかったが、構えると同時に肩に乗っていたロザリアを後方に放り出した。

「『―――下がってろロザリア！　クロガネ！』」

　具体的な指示を出すまでもなく、ロザリアを受け止めたクロガネが後方へと跳ぶ。
　巻き込まれない位置まで下がった瞬間、城の番人が姿を表した。

　衣擦れの音、髪をたなびかせる美しい女性の姿。
　間違いない―――ターゲットであったエンブリオ、ユキアネサ。
　しかし数が多い、威圧感による寒気もそうだが、物理的にも気温が下がっている。

　アデルはこのエンブリオを目当てとして女神の園に来ていたが、同時にこれはアデルにとって相性が最悪の相手だった、ヒーラーですら堪えきれない魔法威力を誇るのに加え、アデルが苦手とする氷属性と来ている。
　クロガネを抜く事が出来れば魔法を切り飛ばす事も出来よう、だがその力は封印されている。
　―――相性が最悪だからこそ手に入れたかった、のだが。

（『勝ち抜かん事には話にならんな』）

　息をついて思考を落ち着ける、ほぼ最悪の状況ではあるが、別段備えをしていない訳ではない、
　―――使わないに越したことはなかったが。

　此処に来る前、ユリアから買い取った菓子を口にしている。
　祝福と魔力の加護があり、氷の魔法でも多少は留めてくれるはずだ。

「私の力をお望みか？　―――ならば私を蹂躙してみるがいい」
「『そうさせて貰おう。―――参る』」

　軽く地を蹴り、柱の上から飛び降りた。

　：：

　一秒にも満たない浮揚感、アデルは鞘の中から戦輪を解き放ち、派手に水しぶきを立てて戦場に着地する。
　手持ちの武器は今日のために変えていた、別段必要はなかったのだが、万全を期するに越したことはない。

　着地した身体を魔力が包む、アデルを中心に派手に旋風が上がり、水が吹き散らされる。
　駆け出した時の加速は普段より格段に早い、強く踏み出し、遥か離れたユキアネサに戦輪を投げ出す。
　狙いは中間の一体、ユキアネサの纏う魔力が攻撃を食い止めようとするが―――砕く。

「なんと……！？」
「『……ここのエンブリオに力を貸してもらってるんだ、魔力食いって言ってな』」

　防壁ごと一体を打ちのめす、突き抜け、戻ってきた戦輪を掴んで更に一体を殴り倒した。
　流石に三体目までには手がまわらない、底冷えする殺気が向けられ、打ち倒した二体を含めて三つの氷柱が向けられる。
　一つ一つが致命的な氷柱、それが三つ。

（『……いや、本当ぞっとしないなこれは』）

　割りと本気で命の危険を感じるが、同時にその寒さを心地いいとも思う。
　この殺気に慣れる事だけはない、臆しないように自らを律する事は出来るが、どうでもいいという領域にだけは決してならない。

　意を決して撃ちだされた氷柱を受ける、魔力食いを受けた二体の攻撃だけ受け止め、万全である一体の攻撃は身をよじって回避。
　事前に施した加護もあり、なんとか受けきった。
　戦闘続行は―――充分に可能、むしろまだ余裕な位だ。

　力尽きた二体を意識の隅に置き、残った一体に戦輪を投げ出した。
　突っ走るのは風の魔力、旋回を重ねた四連撃がユキアネサを襲う。
　トドメに対象ごと一帯を薙ぎ払って『詰み』、撃ちだされた氷柱を踏みこたえてようやく息をつく。

「『……ん、あと一体いたか』」

　先程から何度か攻撃を仕掛けてきた敵に視線を向ける。
　物理的な殴り合いならアデルに分がある、戦輪に火をまとわせ、軽く振り払った。

「『―――――』」

　今度こそ静かになったのを確認する。緊張を30秒ほど続け、ようやく解いた。

「お見事」
「……ん、ごめんねロザちゃん、手荒な事しちゃったわぁ」

　クロガネがロザリアと共に戻ってくる、アデルの口調もいつも通りのものに戻っていた。
　ロザリアは労ってくれたが、余り余裕のある戦い方ではなかった、かっこよさで言えば0点だろう、だが傭兵である以上別段見栄えを気にしてはいない、不理解だけは苦笑いするしかないが。

「さて、戻りましょうか〜、ユリアちゃんのところに行かないと」
「あ、アデル、その事なんだけど……」

　苦虫を噛み潰した顔でロザリアが話しかけてくる。
　何事かと耳を傾ければ、ロザリアがとんでもない事を教えてくれた。

「―――うん、そう、仕方ないわね。余り時間がないけど、ちょっと知り合いにかけあっておく。大丈夫、相応の扱いをしておくわ」

　話し方こそいつものものだが、アデルの口調は冷たい。
　戻りましょう？　と冷ややかに微笑まれて、ロザリアは今度こそ頷いた。

　：：

　当然だが、それ以降アデルの機嫌は余りよくなかった。
　武具を外し、丁寧に手入れを済ませ、風呂に入ってようやく落ち着いたという程度か。

　今日はロザリアも湯を共にしているため、クロガネはいない、全身の力を抜き、アデルがチョコレート色の髪をかきあげる。
　白い肌は傭兵としては驚くほど綺麗な部類に入る、無傷という訳ではないが、外観を損ねるほどのものは残っていない。

「……トレニアとは対照的よね」
「『あいつは必要のない傷を受けすぎだ、そりゃ効率的ではあるが、微妙に基準がおかしいのと、後先考えてないからな』」

　風呂の縁に腕を置き、アデルは身体を伸ばす。鍛えられた身体は肩回りが最も顕著で、脂肪のない無骨さに加え、引き締まった細さを持っていた。
　美しいが色気はほぼないに等しい、戦士のための体だ。
　湯を振り払い、アデルが風呂場から上がる、先んじて身体を洗っていたためにそのまま脱衣場へと向かい、タオルに身を包み、ローブに差し替える。

「『先に上がるぞ、ロザリア』」
「あ、待って、私も上がるわ」

　夜はふけ、二人は私室へと向かう。

　矛先を虚空へ向け構えた槍を、
　　袈裟懸けに振り下ろしては、返すように振り上げる。
　　　多数の節から成る柄はその度に撓り、鞭の如き軌跡を描き。
　　　　節が擦れ合う連続した金属音を上げ、最後にはまた槍の形へと戻った。