あの日は、喫茶店の、隅の方の客席でコーヒーを注文して物思いに耽っていた。

「席、空いてるな。座るぞ」

「……は」

ふ……と、現れた女性が私の返事を聞かぬまま席の対面へと腰かける。黒尽くめの服装に青みがかった銀髪。何よりも色の違う両瞳が特徴的な、よく見知った女。

「……私に何か用でも」

「いや、別に」

「……だったらどうしてそこに座るので」

「いいじゃないか……私はお前と話をしたいんだ」

「私は貴方と会話などしたくないのですけれど」

「相変わらず冷たいな」

私の放った辛辣な言葉に対しても、くつくつと笑いながら答える。そんな彼女の飄々とした態度が、いつもどこか気に障る。

「だったら、さっさと言いたい事を言って、どこにでも行ってくださいませんか」

「そうだな」

言いながら、何事もなさそうな顔のまま私のコーヒーカップに伸ばしてきた彼女の右手を勢い良く叩く。

「……何をしようとしているのですか」

「手厳しい」

彼女の『魔の手』から救ったコーヒーに少しだけ口を付けると、先程よりも自分に近づけてカップを置き直す。

「お前に聞きたい事がある。ある人物の事だ。知っている事があれば何でもいいから、話してくれ」

返事はしない。拒否した所で、彼女は一人で喋り続けるのだろうから。

「ホーラ・ハーヴェイ」

「名前だけです」

「シモンズ……。ネグローク・シモンズ」

「……知りません」

「そうか……」

「……大体、その質問はおかしいと思うのですが」

「……ン」

「元々その両名は、貴方がかつて世話になっていたという人物の筈。私は出会った事すらありません」

「そうだな……」

そしてしばしの沈黙。それっきり俯いたままの彼女の表情は何かを悩んでいるように見えた。

「なぁ、これは真面目な話なんだ。聞いてくれるか」

「どうせ、嫌だと言っても話すのでしょう」

「……彼等の事を思い出せないのだ。その姿、顔も、何も」

「なるほど、貴方は底抜けの恩知らずか、或いは恥知らずか」

「それだけじゃない。私がハーヴェイの残した不老の呪術に失敗した時……人でない身になった時以前の事を全く思い出せないんだ」

「おかしな事を言う。過去の話を度々していたではありませんか」

「そうだな、知っているには知っている。昔私が何をしていたのか、どんな家族がいたのか。断片的にではあるがな」

「人間の記憶など得てしてかような物です。過去全てを記憶している人などいない」

「問題はそこじゃないんだ。そうだな、じゃあ……」

どこからともなく一冊の小説を取り出して目の前にそっと置く。表題には『ガリバー旅行記』と記されていた。

「えぇ、これなら昔読んだことがあります。有名な作品ですが人間風刺の色が濃い」

目の前におかれた小説を手に取るとその表紙を一瞥する。

「主人公は様々な空想の世界を旅して……最後には人間を信用する事ができなくなる。夢と冒険と絶望の物語。主人公の名はガリバー……レムエル・ガリバー」

私が言い終えると、彼女はすっ……とこちらへ手を伸ばす。その開かれた彼女の手のひらの上に、先程の小説を渡して返す。

「お前なら知っていると思った……ま、内容はどうでもいいんだ」

手に持った小説を見せるようにして軽く振る。

「これを読んで記憶して……この小説はお前自身の思い出となるか？」

「ならないでしょう。他人が書いた小説だ。それはあくまで想像上の物語に過ぎない。私は内容を知っているだけです」

「そう、それなんだ。それなんだよ」

彼女は小説を傍らに置くと、テーブルの上で手を組んでじっとこちらの目を見つめる。

「私の記憶もまるで同じ……覚えているのではなく、『知っている』だけなんだ」

「意味がよくわかりませんね」

「だからさ、まるで小説を読んでいるように……物語を知っているだけのように私は自分自身の過去を『知っている』。覚えているのではないんだ。私の記憶であるハズなのに、だ」

「ですが、それは現実に貴方の過去に起きた出来事でしょう。貴方の語る家族構成や過去の出来事を、私も知っている範囲なら証明できます。間違いなく存在した過去だ」

「……果たしてそれはどこまで正しい？お前や、あの子……フローラと共有できない部分にある記憶は真実なのか？」

「……なるほど。それでハーヴェイと……貴方がよく話す片角の男」

「ネグローク」

「そう、彼らの事を知っているか、と」

「あぁ……ハーヴェイの奴の術式の影響かもわからんしな。それに彼らに遭う事はきっと過去の証明と、そして
記憶を辿る手段にもなる」

「自分自身の事を聞く、なんて可笑しな話ですがね。ま、ハーヴェイなら間違いなく実在するでしょう。不老の大魔術師。まだどこかで生きているかもしれない。もう片方は知りませんがね」

「そうか……いつか旅を続けていれば、会えるだろうか」

「ま……我々には嫌というほどの時間がある。確率はともかくとして」

「少し、期待してみるとするかな」

「私には、なぜ貴方がそこまで過去に固執するのかはわかりませんがね」

「はは……こういうの、結構不安なんだぞ？自分で自分が何者かもわからない。果たして本当に私は……私なのか」

「どうでもいい事です」

「なぁ、もし私がお前達の思っている私ではなく、全くの別人だったら……お前はどうする？」

「貴方がもしも私の想像している人物と人違いだったらなら……少しは貴方の事を好きになれるかもしれませんね」

「おいおい……」

その時だけ、呆れたように微笑んだ彼女の姿はいつになく寂しそうに見えたのだ。

「別人である可能性を恐れるなら、元から別人にでもなってみますか」

「……ン？」

「言ってみただけです」

「……フーム」

カップの中に残った、少しのコーヒーを手にとって飲み干す。目の前の彼女は顎に手をあてて、まさに考えていますと言わんばかりの格好をしていた。

「ジゼル」

「まだ何か」

「その腰に沢山ぶら下げているのはなんだ」

「……見てわかりませんか。キーホルダーですよ」

腰元のベルトにチェーンで繋がれた、鷹を象ったキーホルダーを外して並べて見せる。全部で５つあるそれぞれが、それぞれ違った大きさとポーズをとっている。

「鷹のキーホルダー。私にとっては大切なものです」

「……鷹、ね。好きなんだな」

「この子はアレクセイ」

「……名前までつけてるのか？」

「いいじゃないですか、本物を飼う事なんてそうそうできないんですから……」

「そうだな……」

「それで、この子はコスタヤ。こちらがソスラン。こっちの子はヤコフ」

「ふむ」

テーブルの上に並べた鷹のキーホルダーを順番に指さしながら紹介する。彼女はウンウンと頷きながらそれを見つめている。
意味のない行動だが、私も趣味の事となると少しだけ気分が高まってしまうのだ。

「それで……この子がラグナス」

最後に、一番古びたそれを示して言う。

「……ほう。いいじゃないか」

彼女は、そっと丁寧に『ラグナス』を持ち上げると目の前にかざしたそれを見つめている。

「なぁ……ジゼル」

「何ですか」

「これを……私に貸してくれないか」

「は？」

突拍子もない彼女の言葉に、勢いよく腰を浮かせると、椅子がガタリと音を立てた。

「いや、違うぞ。名前をだ。この子の名前を貸してくれないか」

「意味がわかりません」

「お前の提案に乗ってさ、別人になるのさ。気持ちだけでもな」

「それで、どうしてそれなんですが」

「いや、いい名前だなって」

「……」

呆れて言葉もでなかった。

「それに……これならお前に好きになってもらえるかもしれない」

「まさか、そんなわけないじゃないですか」

「……やっぱり、ダメか？」

「……はー……」

屈託のない笑顔をこちらに向ける彼女の姿を見て、やれやれ、と首を振る。

「……別に、ご自由にどうぞ」

「恩に着る」

彼女が、こちらに手を伸ばして『ラグナス』を差し出してくる。だが、それを受け取る事はせず手のひらで彼女の元へと押し返す。

「それは貸したものです。貴方が持っているべきだ」

「名前だけで充分だよ……それに、大切なものなんだろ」

「中途半端は嫌いなだけです。貴方が自分の記憶に自信を持てたらその時返してもらいます」

「お前……」

彼女……ラグナスが、じっとこちらの顔を見つめている。

「まだ何か」

「お前ってさ……いつも言うことは厳しいけど、本当にいい奴だよな……。愛してるぞ」

「……」

「やめろ、気持ち悪い」

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