【Before Grand=Guignol】

その日、ある街で一人の少女がひっそりと死んだ。
生まれつき病弱で床に伏せっていた少女。
両脚は切断を余儀なくされ、自分の部屋と、窓から見える景色と、優しい両親と家政婦だけが彼女の世界だった。
裕福だった両親は娘に与え得る全てのものを与えたが、外の世界だけは終に見せてやることはできなかった。

少女は十三の時、静かに息を引き取った。
看取る者は、両親と老家政婦の三人だけだった。



*******

「遅かったね。何処に行っていたんだい？」

天幕に戻ると、座長に声をかけられた。

「……いや」

言葉を濁すも、座長は特に追及はしてこない。
ただ、口元に僅かに含みのある笑みが見えたような気がした。
いや、座長はいつも得体の知れない笑みを浮かべているから、別段普段と変わらないのかもしれない。

森の中で行き倒れていたらしい俺を拾ってくれたことには感謝しているが、信用していいのかどうか、正直よくわからない。
何しろ、俺は気付いたらこのサーカスにいて、それ以前のことは手品以外覚えていないのだ。
しかし、座長と名乗ったこの男―ギーには何か薄気味悪いものを感じる。
それが何なのかは、まだ判然としないが。

「まあいいさ。明日の夜発つから、今のうちに支度をしておきたまえ」
「……わかった」

明日。
随分と急な話だ。
彼女に挨拶する時間は、あるだろうか。



*******

その少女に初めて会ったのは一週間前。
公演を終えて街をぶらついていた時のことだった。
何となく入った路地で、上から声をかけられた。

「ねえ、あなただあれ？」

驚いて見上げれば、路地に面した屋敷の二階の窓から、一人の少女が顔を出していた。
桃色の長い髪を二つに分けた、愛らしい顔の少女だった。
ただその肌は白く、まともに日の光を浴びたこともなさそうな色をしていた。

「……」

困った。
俺は今まで、まともに子供と話したことがなかった。
子供達は皆、俺を怖がって逃げてしまう。
子供に話し掛けられたのは…大人になってからは初めてかもしれない。

「ここ、あまり人がとおらないの。ばあやしかみたことないわ」

どうやら、この屋敷の人間しか通らないような裏道に入り込んでしまったらしい。
黙り込んでいる俺に構わず、少女は小鳥のような声で喋り続けた。

「ね、おにいさん、おなまえ、なんていうの？テーアはね、テーアっていうのよ！おにいさんのおなまえもおしえて？」
「……ヴィクトール」

身こそ乗り出さないものの、少女の好奇心に満ちた瞳に少し、気圧されるように一歩後じさる。

「ヴィクトール！」

少女は可愛らしい声で俺の名を復唱した。

「ねぇヴィクトール、テーアと…」

「ドロテア？入るわよ？」

少女が何か言いかけた時、落ち着いた雰囲気の女性の声が聞こえた。
少女のいる部屋の外からのようだった。

「あっ、ママだ！ね、ヴィクトール、またきてね？テーアいつもここにいるから！」

慌てたように早口で言うと、少女…ドロテアは窓を閉めた。
レースのカーテン越しに、小さく手を振る姿が見えた。
彼女の腕は、折れそうな程細かった。

それが、ドロテアと俺が出会った日だった。



*******

それから何度か、少女のいる窓の下に行った。
しかし、毎日来る羽目になるとは思わなかった。
別れを告げる度に、今にも泣き出しそうな顔で「またきてね？」などと言われれば、来ないわけにもいくまい。
何より俺は嬉しかった。
窓越しに会話する一時、俺のささやかな手品で彼女が笑ってくれることが、ただ嬉しかった。

話をするうちに、彼女の置かれた状況がわかってきた。

「テーアは『きょじゃくたいしつ』だから、おそとにでちゃいけないのよ。おいしゃさまがいってるの、きいちゃった」

ドロテアは『きょじゃくたいしつ』という言葉を一音一音はっきりと発音した後、何やら誇らしげな様子で胸を張った。
難しい言葉を知っているんだな、と返すとますます得意そうな顔をした。

つまりどうやら、この少女は体が弱く、屋敷の中で割れ物のように大切に育てられているらしい。

「パパもママもやさしいけど、テーアおそとにでてみたいな。ね、ヴィクトール、おそとはたのしい？」
「……楽しいことばかりではないが」
「そうなの？」

この少女に外の世界を見せてやれたら、喜ぶだろうか。
出来るなら、美しいものだけ見せてやりたい。
時折小さな咳をする少女を見ながら、いつしか俺は、そう思っていた。



結局、あの少女に別れを告げることはできなかった。
調教師の娘が躓いてひっくり返した荷物の片付けを手伝っていたら、夜―出発の時間になってしまった。
きっとあの子は怒るだろう。もしかしたら、悲しむかもしれない…というのは、俺の思い上がりだろうか。



*******

街の外れ、丘の上の墓地。
よく手入れされたこの墓地に、しかし今は誰もいない。
こんな夜更けに墓に立ち入る人間など、至極良識的な市民ばかりのこの街にいるはずもない。

だが、整然と並んだ墓石の中をゆっくりと進む影がふたつある。

ひとつは帽子を被った、華奢な男。
蝋のように白い貌の男は、背後に奇妙なシルエットの大柄な影を従えている。
背後の影は頭巾を被り、顔のあるべき部分には鳥の顔を模した仮面。
道化のような衣装から伸びた手足は金属製の甲冑で、月の光の下、冷たく輝いている。

彼らはある墓の前で歩みを止める。

「やれやれ、随分と迎えが遅くなってしまったね。おかげで手間が増えたよ」

帽子の男は大仰な仕草で天を仰いだ。
大男の仮面の目の穴からは、青白く光る煙のようなものがゆらゆらと立ち上っている。

「出来れば何処ぞの墓荒らしのような真似はしたくなかったのだけど、仕方あるまい、ご両親がなかなか離れないものだから」
「…………」
「さぞ愛されていたのだね。幸せなことだ」
「…………」

仮面の大男は一人で喋る帽子の男の横で、相槌を打つでもなく墓石を眺めている。
否、仮面がそちらを向いているというだけの話だが。

会話する気のなさそうな大男の素振りを気にする風でもなく、帽子の男は持っていたステッキで示すように墓石を軽く叩いた。

「ほら、突っ立っていないで、早く掘りたまえ。その為に君を連れてきたのだからね」

言われて大男はシャベルで地面を掘り始めたが、その動作は緩慢で、命じられたこの仕事に気乗りしていない様子が見て取れる。

「何か不満かね？ルキーノ」

手伝うでもなく作業を眺めていた帽子の男が、のろのろとした態度を咎めるように声を上げた。
大男はシャベルを地面に突き刺すと、帽子の男に向き直った。
仮面の目の穴から漏れた青白い煙の先が、炎のように揺らめく。

「不満があるなら言ってくれたまえ？何なら筆談でも構わんがね？」

「……」

仮面の男は答えない。
彼は話す口を持たず、文字を書く学もない。
彼が答える術を持たないことを、帽子の男は知っている。
知っていて、そう問うている。

「それじゃあ仕方あるまい」

青白い煙が、ちりちりと苛立つように揺れる。

「君は僕のことをいけ好かない野郎だとでも思っているのだろう。しかし可愛い妹の想い人を殺すわけにもいかない。何故なら君は、妹に嫌われることを一番怖れているのだから」

その言葉はどうやら仮面の男の勘に障ったようで、青白い煙が炎のように噴き上がった。
無言のまま、大男は帽子の男に詰め寄る。

「別に僕はそんなつもりはないのだけど、君には僕が妹を弄んでいるように見えるのかもしれないね。いやはや全く、そんなつもりは毛頭ないのだけれど。そも、座長が団員に手を出したら問題だろう？僕はそういう面倒な事はしない主義でね」

あの娘はいかにも面倒そうなタイプだし、と挑発するような台詞を吐きながら、帽子の男は冷めた目で仮面の男を見返した。

「やれやれ、そんな怖い顔をしないでくれたまえ。君は妹と、君の幸せを一番に考えていればいい」

握り締めた甲冑の拳が小刻みに震える。

「それはつまり、黙って僕に従っていればいいということさ。あの娘の歌は怪奇天幕でこそ奏でられるべきだ。他に行く場所などないし、迎えてくれる場所もない」

「妹の幸せが君の幸せだと言うのなら、君に選択肢などあるはずもない。そうだろう？ルキーノ」

大男は一度だけ、金属の軋みが聞こえる程強く拳を握り込み、それから帽子の男に背を向けて、シャベルを手に取った。
重い足取りで、墓石に向かう。

「君は頭がない癖に考えていることがわかりやすくて助かるよ。さあさあ、愛しい妹の為にも、早くこのお嬢さんを出してあげようじゃないか」

その後ろ姿に頷いて、帽子の男は別の墓石に腰かけた。
鼻歌など歌いながら作業を眺めるつもりのようだ。



掘り始めて十分程で、真新しい小さな棺が顔を出した。
蓋を開けると、眠っているような少女の骸が花に包まれている。

「さあ目を覚ましたまえ、眠り姫。永い永い夢の時間だ」

座長が少女を抱き上げる。
恋人のように手を取り、愛を語るように耳元に唇を寄せて、悪夢のように甘い呪いを囁く。

「君に世界を見せてあげよう。
君にふさわしい脚と、君だけの騎士も与えよう。
君は其処にいるだけでいい。
爛漫に夢を謳歌していればそれでいい。
そうすれば騎士は、いつまでも強く在り続けるだろう。」

座長の冷たい腕の中で、少女の目が開く。
零れ落ちそうな闇が、男を見つめ返した。

いつの間にか現れた革表紙の本が、赤く輝きながら浮遊していた。



*******

花が咲くことはない。
蕾が開くことはない。
最早枯れることもない。
蕾は永遠に蕾のまま在り続け、
茨だけが密やかに絡みつくだろう。

黙られてしまえば、せっかく少女のほうを向いていた視線も
またちらりと青年に向かってしまうだろう。
幾ら口数が少ないといったって、やりとりの中途。唐突に思われるゆえ。
頭に「ん」がつきそうな程の凝視が一拍、ヴィクトールにむいた。

んじぃ。

そんな調子で、穴開くほど。
朗らかで―――ちょっと場違いな少女の声にぱたりと瞬くと、その圧力も止む。

いっそ、朗らかで軽やかだからこそ哀れってなもんである。

そう嘯いて片目を閉じてみせる。
軽口の中、匂いを嗅いで首をかしげている様子を見てわずかに目を細める。

そう、ヴィクトールに渡し返した薔薇を指さして

首を傾げるドロテアと、固まるヴィクトールに意地の悪い笑みを浮かべつつ。

十分楽しんだ後で、空気を――それこそ読めてませんの勢いで言葉添える。
他意はない。例えば、他の誰かでも良かった…なんてはてさて、
彼の逃げ道に、なるだろうか。娘にとってはどちらでも良い。
表面上は青年を責める素振りで唇を尖らせてはいるけれど。

ちらりと馬たちに視線を向けて。

通りかかった男に声をかけると、訝りながら歩みよってくる。
包帯塗れで生気の無い肌の色をした男は同じく生気の無い瞳で白い貌の男を見た

男は軽く会釈をしてから、再び相手の顔を見る。少し、何か考える様子で

たっぷりの間の後、彼は隣に並んでいた女性の腕を引いて、
まるで誰の目にも彼女の姿は触れさせないとばかりに、己の背後へと促した。

ブルートはその仮面の奥に警戒心を隠して、ギーと名乗る男と対面した。
それから少しだけ顔を傾けて、先ほど背後へ隠した女性へと視線を向ける。

ブルートの肩口から少しだけ顔を覗かせて、彼の妻は楽しそうに微笑んだ。
自身の“妹”に似てお転婆な少女の事を、気に入ったようだ。

ブルートの妻は徐にドレスの裾を摘み上げて、その細い足を晒して見せた。
陶器のように真白なその右足は、やはり無機質な球体関節であった。

赤黒い左目でじっと目の前の２人を見つめて、
ブルートはどことなく含みを感じさせるような笑顔を浮かべた。

[>土人形のような機械が三拍子のリズムを刻んでいる。