肩に止まっていたトリが、急に忙しなく騒ぎ出した。
日が暮れると夜は急激に気温が下がりだす。その中で進むには厳しいとの判断で、少し時間を切り上げた帰り道だった。
前を歩いていた闇のコートの裾を引っ張り、ちょっと花を取って来るから先に帰っててと告げる。短い返事を背中で受け取って、慌ててトリが飛ぶ方へと追いかけた。

走り握る掌にジワリと汗が浮かぶ。きっとまた記憶が戻るのだろう。今度はどんなものなのか。少し憂鬱だなぁ。
リリィンと鈴の音が騒がしく鳴る。トリが何かに気付いた時の合図だ。道が拓けた所で、前を走っていたベルカが立ち止まった。それにつられて、わたしもつんのめる様に立ち止まる。

「何だ？俺の花壇じゃないか。嬢ちゃんの鳥は花でも探しているのか？」
わたしが息を切らす隣で、ベルカが涼しそうな顔で言う。
トリが何かを探すように宙を飛び回っているが、辿り着いた場所はつい昨日ベルカに連れてこられた水仙の花畑だった。
トリがこの反応をする時は、わたしの記憶を持ったエンブリオが側にいる時だ。しかし、辺りを見回してみても何も変わった景色はない。今回は違うのだろうか？

「んんんんん？なんもないな……」

暫く耳を済ましてみても、森を通り抜ける風やどこかで水の流れる音以外が森に響く気配はなかった。
ふぅ、と安堵の息をつく。緊張して損したな。そんな事を考えながら座り込んで、花を一本手に取った。プチっと千切ると、ベルカが「おい」とこちらを睨む。慌てて謝り、部屋に飾るからと言葉を添える。
ユクリ達にもあげようかな、なんて考えていた頭を振って立ち上がった。一本千切っただけでこれなのだ。5本も6本も持って帰ろうものなら、わたしはあの鋭い歯に噛み砕かれるに違いない。
わたしが主人な筈なのになぁ…。大きく溜息を付いてベルカの顔を見る。
屋敷の仲間達がエンブリオに振り回されている姿など、見た事がない。トリも、小人の老人も、この虎もどうしてこんなにも我が強いのか。わたしの威厳が足らないのだろうか？

「おおーいトリー！かえるよー！」
木の上のトリに声をかけた、その瞬間。「危ない！！！！」と老人の声が響く。えっ？と思った時にはもう、わたしの身体は大きく傾いていた。
スローモーションに動く視界の中で、深い青の髪と白の服が揺れる。あぁ綺麗だなぁなんて思っていたら、ドンっと頭に鈍い痛みが襲いかかった。


景色が暗転する。





「----な ----------起きて下さい。もう朝ですよ」
どこか遠くで声が聞こえた。煩いなぁ、まだ目が開かないんだ。毛布が暖かくて、出たくないんだよ。
声を遮るように毛布を被る。やや間が空いた後、仕方がないですねという言葉を引き金にぐいっと力強く毛布を剥がされて、光が視界を襲う。
「おはようございます」と悪戯っぽく笑う笑顔と目があった。

景色がザラザラと消えていく。
あぁ、夢を見ているのか。と言う事はわたしはまた誰かに記憶を返されたのか。今度の夢は何だろう。怖いものじゃなければいいけど。
ザラザラと視界が揺れて、何もなくなった空間に今度は机とご飯が並ぶ。

「ご飯お代わり！」
「……相変わらずよく食べますね……作る側としては嬉しいものですけれど」

あ、さっき起こしに来た人だ。
ご飯をよそう姿をじっと見る。声にも覚えがあった。
誰だっけ、どこで会ったのだっけ。

わたしがご飯を食べる姿を、楽しそうに見る笑顔が心地良い。
馬鹿だなぁ。君が作るから美味しいんだよ。わたしの為にと、作ってくれる事が嬉しいから、幾らでも欲しくなってしまうんだよ。きっと君は気付いていないのだろうけど。

また、景色が変わる。今度は一緒にお菓子を作っている所だ。
わたしが中々上手く出来なくて手間取っていると、「ほら、貸してごらんなさい」と簡単にカタチを整えるものだから、わたしは少し拗ねていた。
それでもその時間が楽しくて楽しくて。今度は上手くやるから貸してと、またお菓子を取り上げる。苦笑するその姿を見て、あぁもっと色んな顔が見たいなぁなんて考えていた。

喧嘩をして怒っては仲直りをして笑う。共に過ごす時間が大好きだった。
一緒に過ごして居たのに、もっと一緒にいたいなぁと次から次へと欲が出てしまう。でもわたしはどうしてか、いつも恥ずかしくて上手く気持ちを伝えられなくて。ちゃんと伝えたかったなぁと、今になって思う。君は何処に居るの？ーーーーあぁ、会いたい。


再びザラザラと気色が消えて行く。
ふっと耳元で、チリンと鈴の音が聞こえた気がした。閉じていたものが開いていくかの様に、静かな空間に音が溢れ出す。やがてそれらはぎゃーぎゃーと騒がしい罵り合戦となって耳に届いた。

「お前がいきなり突っ込むから悪いんだろうが」
「よく言いますよ。ちゃんと守れなかったのはそちらでしょう？」
「何だともっぺん言ってみろ弱虫ポセイドンが」
「だからその呼び方はやめて下さいと言っているでしょうがこの馬鹿虎！そんなだからーーー」

耳がキンキンする。人が気持ちよく寝ていたというのに、何で怒鳴り合いの声で目を覚まさなければならないのだ。
しまいには、「やろうってのか」「買って差し上げますよその喧嘩」と乱闘にまでなりそうな気配まで出始める始末だ。

「ぁあああああうるさーい！！！！」
飛び起きるなり、目の前の虎を突き飛ばした。驚いているベルカを睨みつけていると、背後から急に、「あぁ！良かった目が覚めたんですね。先程は大変失礼致しました」と抱きしめられた。聞きなれない声に違和感を覚えて、視線を上げる。それどころか、気分が悪かったりしませんか？と笑う笑顔にも、見覚えがない。深い海の青のような色の髪に目をやる。そして、倒れる前の記憶を呼び覚まされる。そうだ、わたしはコイツに突進されて頭をぶつけたのだ。

訳も分からないまま訳の分からないやつに謝られて、抱きしめられているこの状況。途端にフツフツと怒りが湧いてきた。文句の一つや二つでも言ってやろうと強く睨みつけるも、背後から抱きしめられている状態では効き目もないに等しい。離してとジタバタして、ようやく「おや、これは失礼しました」と腕を解いてもらった。改めてマジマジと眺めるも、やっぱり分からない。「おはようございます、イシス」と綺麗な顔で笑うこいつは一体誰なのだ。「んん？」やや遅れて疑問が浮かぶ

「いしす？」
「ええ。どんなに小さくなられていても、私には分かりますよ」
「だれそれ」
「えぇっ、貴女の名前でしょう？」

一体わたしは誰と間違えられているのだろう。
「だから言っているだろうが。その嬢ちゃんはイシスなんかじゃない」
「そんな…だって…」

明らかにイライラとした声のトーンでベルカが間に入る。
おいおい。一体何の事だ。背後でガサガサと背後で草の揺れる音がする。

「お、起きたかな。お前さん頭は大丈夫かの？随分強くぶつけたんじゃなぁ。タンコブが出来ておるよ」

足下から声が湧いて、目線を下げるとトリを頭に乗せた小人の老人が立っていた。手には濡れたタオルを抱えている。
ほれ、冷やしておきなさい。と手渡されて、ようやく自分の頭の後ろがじんわりと鈍い痛みが残っている事に気付いた。ありがとうと受け取って、頭を冷やす。ベルカと青髪のやり取りを眺める。相変わらず2人はわたしの理解の及ばない話を難しい顔で繰り広げていた。

「さて、今お前さんらが議論すべきはそこじゃなかろうて」
老人が切り株に腰をかけながら、青髪とベルカの仲裁に入る。「イオ、もう契約は済んだのかの？」そして急にこちらへ話を降るものだから、驚いた表紙にタオルがべシャリと落ちた。

「えっ？どういうこと？」

「おいジィさん俺は反対だぞ」
「おや。貴方に反対する謂われはないはずですが？」
「あぁ？何でお前と一緒にまた暮らさにゃらならんのだ」
「それは此方の台詞です。それに、わたしはまだ貴方の事を許したつもりもないのですが」
「何が言いたい」
「よくものうのうと生きていられますねと言っているんですよ」
「おい、お前さんらその話はーー」

あぁ、もう我慢の限界だ。どうしてこいつらはわたしの話を一切聞かないんだ。分からない話を目の前で長々とされ、理解もしてないのに話を進められる。良い加減にしろ！わたしは今一体どういう状況にいるんだ。誰か説明しろ！自分の中で何かがパチンと弾けるのが分かった。

「だからうるさぁああい！！！！ケンカするなぁあああ！！！！」

怒鳴り声が森に響いて、驚いた鳥達が夕焼け空へと飛び立った。
しかし、驚いたのは鳥達だけではなかったようで。ベルカも青髪も目をパチクリとさせてこちらを見ている。
暫くの間の後、ホッホと楽しそうに老人が笑って立ち上がった。

「いやいや、すまんかったの。説明が足らなんだな」
タオルを拾い、パンパンと汚れを落として渡しながら老人は可笑しそうに顔を綻ばせる。

「わしらはな、イオ。元は一つの家に仕えるエンブリオでの。一揆のせいでバラバラになっておったんじゃ。何の縁か、またこうして集まってしもうたが、あいつら二人は元から仲が悪ぅてなぁ。まぁ、その変の話はまた追い追い聞いてゆけばよいじゃろ」

あっ、そうか。と思い出す。そういえば、昨日の夜ベルカが話していた。自分には元は家族があって、喧嘩しながらも仲良く暮らしていた、と。

「なんだ、じゃぁアナタとベルカもしりあいだったの」
「そうじゃ」「まぁな」

頷く老人の横で、そのベルカがあからさまに表情を歪めて返事をする。それに付け加えて「昨日の事は喋るなよ」と釘を刺されてしまった。
どうして？昨日はあんなにも楽しそうに話していたというのに。
「秘密にしておきたい事というのは、誰にもあるもんじゃよ」と老人に耳元で囁かれ、なるほどそういうものなのか。と頷く。

「それで、ええと」
先程からジッとわたしの事を難しいものを見るかの様に眺めて来る青髪の青年を見やる。その視線に気付いたのか、青年は小さく何か独り言を呟いて、何かを追い払う様に首を降った。

「ーー申し遅れましたね。私はノヴァ。ポセイドンという種のエンブリオです」
目線を合わせてくれる様に膝をついて、わたしの手を握る。深い海の色を思わせる青の髪から覗く同じ青の目は、少し濡れている様に見えた。その目に少しドキリとする。まさか、わたしが泣かせてしまった？さっき怒鳴ってしまったから？
どうしよう、と思っていたら「貴女のお名前は？」と聞かれた。
遅れて「あっ、えっとイオです」と名前を返す。慌てて「キオクかえしてくれて、ありがと」と付け加えた。
ハイ、と目を細めて笑う姿に、少しだけどこかでホッとする。

ノヴァと名乗ったこの青年が返してくれた記憶は、少しだけ何か胸を締め付けるものだった。誰かは分からないけれど、とても大切だった人。誰かを想うという事は何だか少し心地がよい気がした。
この青年にも誰か大切な人がいるのだろうか？そんな事を思っていると、トリが再びリィンと騒ぎ出す。驚いて何かと聞けば、何を伝えたいのか髪を上へ上へと引っ張った。何、と視線を上げれば一番星が見える。
空の色は紫から夜の黒へと変わりかけている所だった。
トリの訴えに気付いた瞬間、冷や汗が流れる。

「か、か、かえらなきゃおこられる！」

慌てて辺りの花をブチブチと数本千切った。驚いたベルカが声を荒げるが知ったこっちゃない。喧嘩して時間を食ったお前達が悪いんだ。
これだけ時間が経ってしまったのだから、花でも渡して謝るしかないだろう。何しろ、晩ご飯の危機が迫っている。

不満を撒き散らしているベルカに帰るぞと急かす。
紹介しなきゃいけないのも増えたのだから、と言うと、一層苛立ちが際立った。ふふっと笑ってノヴァが老人とわたしを抱き、ベルカの背に乗る。

「………噛み砕くぞ」
「仕方ないでしょう、わたし足は遅いんですから」
「遅れて来れば良いだろうが」
「家も知らないのにどうしろと言うんです？」

「あぁあああもう！！！いいからはやくはしって！！！」

タンコブのせいなのか、このエンブリオのせいなのか。痛む頭を抱えて、再び怒鳴った。わたしの隣で老人が、「まぁ、こういうのも良いじゃろ」
とノヴァに向けて笑う。あ、そう。わたしは何にもよくないけど。

竹林を走り抜けながら、流れ星を探す。どうかこのエンブリオ達がいつかわたしの言うことをちゃんと聞いてくれますようにと、そう願いながら。




エンブリオ達の『今』の話