「サクロ、少し…………何だい、それは」
珍しいと感じた。廊下に背を向ける恰好で、何かをしているようだった。彼女が口から文句や泣き言を言わずして、このように作業をしている姿を今まで見たことがない。
「ああ？　……なんや、ユーグか」
面白くない、とその語尾に着くような口ぶりだった。平時の彼女と比べるととげとげしいことこの上無かった。
そういえば、私がずっとツグミとあの男の事ばかり考えていたとき、周りの人間はどうだったのだろう。気にも留めていなかったけれど、それは思えばかなり不味かったのではないかと思い始める。

「少し、話がしたいのだが」
「そうかそうか。ちょうどウチも聞きたいことが山盛りや」
佐久呂の顔は笑っていた。正確には引きつった笑いであった――彼女は漏れ出る怒りを完全に笑顔で包み隠せる程には、感情を制御出来ないらしい。いや、故意にそのままにしているのかもしれなかった。
手元の作業を中断すると、佐久呂はおもむろに私に近づいた。そこに漂う空気が、私には警告としか感じられなかった。

「ふんっ」

軽い掛け声と重い衝撃――殴られたのだ、と頭は瞬時に理解した。
本気を出せば歯どころか骨を折られかねないであろう、しかし随分と手加減されたパンチだった。左手ではなく右手であるということも踏まえて考えても、結構可愛がられているらしい。それでも軽い脳震盪を起こす頭を抑え込み、私は唸った。人生で顔を殴られることなど、そう無いことだった。平手打ちなら、何度かあったけれど。
「……ッ」
口内が切れた――血の味がする。
「ホンマはもっと本気で殴り飛ばしたいところやけど、やめといたる」
「それは……ありがたいね」
佐久呂の顔はそれこそ怒りに満ちていたが、私とツグミが二人して不調だったこと、その原因に対して怒っているようには見えなかった。驕りでもなんでもない私の推察だったが、彼女の怒りは、きっと別の理由からだ。勿論その一端を担っているのは、十分に私たちだったのだろう。
それにしても、佐久呂のパンチは痛烈に効いた。
解け、粉々になった私の精神を総動員して修復しなければならない程に。


＊＊＊＊＊＊＊


「……サクロ」
縁側に座り込み、開け放たれた戸の縁に頭を凭れ掛かるような形で、ひどくだらしない恰好をしていると思った。殴られたダメージもそこそこあるのだから仕方がないと言い聞かせる。それに、縁側というものは座っても構わない場所であることは知識として知っていた。今まで床に座ることに対して気乗りがしなかっただけだ。
佐久呂の気配は背後に依然としてあった。無言であったことに対し、話をしても構わないという風に受け取る。
私は脈絡も何も考えず、ただただ思ったことを口に出した。その方が、本当に考えていることを取り繕わず話せるような気がしたからだ。
「死んだ人間に対して、生きているということはとてつもないアドバンテージだ。死んでいるということは、つまり何も出来ないことと同義だ」
どんなに絶大な力をもってしても、死は平等で絶対的だ――私が居た世界ならば。
「何も出来なければ……しかし、死んだ状態でも干渉しうる力があるのならば、そのアドバンテージは無いに等しい」
エンブリオに姿かたちを変え死後もなお生者に接触できるという、この世界に存在する新しい死の形は少なからず私に動揺を与えた。

「初めてだよ。死んだ人間を羨ましいと思ったのは……」

そう、羨ましかった。
私には手の届かない、ツグミの心の水底までを見通せるその男――逆に、その男は彼岸からこちらに手を伸ばせど届かない状況であったからこそ、私にもいくらか優っている部分はあるのだと思えた。だというのに、その手がこちらに届いたのだから――記憶という、生きたものではなかったが、死してなお生者に干渉するようなことが出来たのだから。
佐久呂は私の横に立ち、顎に手を添えてふむと唸った。表情を盗み見るように伺ったが、考えている様子ではなかった。つまり、彼女の中に私が漏らした言葉に対する返答は明確に存在するということだった。それも、今考えたようなものではなく、彼女の中に死に対する答えは確固として存在しているのだ。
しかしながら、それに対しての返答はなかった。

「……死んだ人間なあ……それがどないしたんや？」
「ツグミが追っていたのは死者の幻影だ。エンブリオ……私には見えないそれに、記憶を重ねていたのだと」
ああ、とサクロは相槌を打った。彼女の中では比較的簡単に話が繋がったらしい。
エンブリオに暗い過去を、母親を、そしてあの男を見出していた。それらは今も、ツグミと『契約』という形で結ばれている。
ツグミが私に感謝の言葉を述べた後――その言葉の衝撃が余りにも大きく、何をしていたかあまり覚えていない。恐らく、それぞれの記憶について訊ねていたと思う。私の質問に対して、ツグミがゆっくりと言葉を返す。勿論、あの男のことは何も聞かなかった。
過去の片鱗を知るに、いかに能力者が忌まれていたかを再認識するに至った。それは私も同じこと、だったはずだ。
「自分には見えへんもんを追うとったんが気に食わんかったか」
直接的な表現をされると、無性に恥ずかしくなった。
「サクロ。君はどうなんだい……あれを見るには、何かの才能が要るように思えるんだが」
「そこらにおるんは見えとるで。っちゅーか、ユーグ。お前も普通に穴空けまくっとるんやから、見えとるやろう？」
「それは、まあ」
行軍の度に出くわす異形を言っているのだ。あれは私にも見えている。かと言って、不定形のものは薄らと輪郭が見える程度で、視認出来るのは獣や人間の類だ。それも止めを刺せば終わり――その先、それらがエンブリオになるという仕組みだけは知っているが、私にとって死体はいつまでたっても死体のままだった。そこから何が出てくるとか、形が変わるとか、そのような事象を見たことは一度もない。

「ただ契約後はなぁ……こっちメルンテーゼの不思議やな。七つかいくつかは知らんけども。契約者の解釈だか願望だかにびしばし影響受けよる。エラい柔軟な世界なんやな」
「私には全く干渉出来ない類の話だな」
視認どころか、気配を捉える事すら出来ない。唯一感じ取れたときは、ツグミの体を介して認識出来たというニュアンスに近いものだった。
「私は、ほれ、消化しきるまで自分の血肉として付き合ォとるし、サルなら童として連れ歩いとる。ネクターとやらで繋がりを維持しとるのは共通しとるが、在り方、見え方を同じにゃ括れんわな」
ネクターと呼ばれる赤い花、その花に対する扱い方は、私が屋敷の中で一番雑だと自負していた。珍重されることこそ分かっていたけれど、自分には何のメリットももたらさない。かと言って売ろうものなら流石に百日紅に止められてしまったので、自室の花瓶に無造作に突っ込んであるのが現状だった。水も――替えていない。それなのに、ネクターは煌々と咲き続けている。
「そうか……君には、見えるのか」
それならば、私にひとたび。
ひとたび――どうして欲しかったのだ。
私の中でも、未だに纏まりきらない思考を読み取ったのか、サクロが白けたような顔をこちらに寄越した。
「何でやって顔しとるけど」
「……」
「ツグミが追いかけとるんが見えとったとしてや、私はそれを教えたった方がよかったか？　わざわざ？　何やイライラしとるお前に？　お前に見えんあさってを指差して？」
「……それは」
「ほぅら、お前の小鳥が逃げよるで、…て？」
矢継ぎ早に浴びせられる問いに私は何も答えることが出来なかった。最早詰問に近かったが、私はそれらに答えを用意することが何一つ出来なかった。佐久呂は返答を求めている様子はなく、どちらかというと私に対して考えを浴びせることを良しとしていた。
これは、周りを放置していたことに対する彼女なりの罰の与え方なのかもしれない。
「サクロ」
「いくら私が死なんというても、好んで痛い目に合いとォない。なんで黙って待っとった思てるねん」
私に向けて払うように手を振る。間違いなく、あの時ツグミの事を口添えされていたら苛立っていた私は何かを害していたに違いない。
自分では、ツグミの事を何も分からないと漏らしておきながら。
そう思ったとき、私は自分自身が思っていたよりも酷く幼く、子供のように思えた――ことさら、ツグミの事になると。

「……悪かった」

謝っておいた方がいいと、過去の私の女性に対する経験がそう告げていた。それが失敗かどうかはさておき、こちらの意図を提示することは必要だ。
「遅い。もっと大事になる前に言わんかい」
「……ああ」
「で？　ツグミはどないすんの。……お前さんとツグミの仲立ちとかした方がええんか？」
その言葉からは、いかに佐久呂が花屋敷の者を気にかけているかが良く伝わった。
しかし、佐久呂は昨日、私とツグミの関係が元に戻るに近い出来事があったことを知らなかった。当然のことながら、ツグミが私に向けて話してくれた言葉の数々を、易々と他人に話すつもりはなかった。

「いや……確かにそうだが……いいんだ」
「はあ？」
「……いいんだ」
佐久呂は気に食わなかったらしく、もう一度拳を構えた。これ以上殴られて頬を腫らすのは嫌だったので、すかさず両手を上げて降参の意を示す。
「そうやって自己完結するんはお前さんの悪い癖やぞ、ユーグ」
「いや、大丈夫なんだ。何となくだけれど、昨日、ちゃんと……」
ちゃんと関係を修復するに至った。そういう前に佐久呂は私の様子から悪い方向には行かなかったのだと読み取ったらしい、まあええわと言葉を遮った。その様子に、私はもう一度頭を下げておいた。頭を下げたことで佐久呂が居た部屋の――床に置かれた物体が目に入る。
あれは、と問う前に視線に気づいたのか、佐久呂は実に楽しそうな笑みを浮かべそれを手に取った。酷く汚れた西洋人形だった。佐久呂が少し持ち上げただけで、その首は捥げて落ちる。不気味さを感じずにはいられなかった。微妙な顔持ちをしている私に、佐久呂は笑って見せる。
「人形の修復作業や。おらんようになった人間を、それでも愛でたいていう報われへん気持ちの、入れ物。頼まれごとでな」
ああ、同じだった。
意地の悪さであったのか、それとも気づかずのうちか分からなかったけれど、その言葉は私の心に鞭打つに値するものだった。
エンブリオ、その中に宿るツグミにまつわる記憶たち。

ツグミはそれらをどうやって愛でるのだろうか。


それならば私は、彼らの上を行くまでだった。彼らをもってして届かないところ、そこに生者として行き着くまでだ。
――ありがとう。
ツグミの感謝の言葉が頭の中で何度も反響した。あれが水底から伸ばされた精一杯の感情であったのなら、私はそれを余さず救い上げてみせる。最後に岸へと引きずりあげるのは生者の役目であるとそう思った。
床に打ち捨てられた人形の首、その虚ろな作り物の瞳が見えた。
――あの男も死に際がこうだったのだろうと思うと、何とも形容し難い感情が沸き上がった。


――精々私を羨んでみせろ、と。




※纏まらなかったのでもうちょっと続くんじゃよ